良書読書会のしおり

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これは作者の罠なのか — 安部公房『笑う月』(1975)

 安部公房は間違いなく戦後日本を代表する作家の一人だ。「ノーベル文学賞受賞寸前だった」というような世俗的なニュースもたまに流れてきたりするので、名前だけでも知っている人も多いだろう。あるいは、教科書で短編『赤い繭』(『』より)やエッセイ『ヘビについて』(『砂漠の思想』に収録)を読んで知ったという人もいるのではないだろうか。
 
 安部公房作品は数多くあるが、その中でも私が特に気に入っているのが『笑う月』という一冊だ。1975年に出版され、現在は文庫化もされている。「安部公房を読んでみたいのだけど何がいい?」と聞かれた時には、私はこの作品を勧めることが多い。
 
 私がこの本を手にとったのは大学生の頃。読もうと思った理由は「安心したかった」からだ。
 
 その頃、安部公房にハマり、彼の小説をたて続けに読んでいた。どれも大変心揺さぶるものがあり、今でも好きな作品が多い。けれどもどの作品も、読み終えた後に、必ずと言っていいほど言い知れぬ不安感に襲われた。何か自分の足元が根幹からぐらつくような感覚。
 
 「怖がり」の私は「種明かし」を、あるいは「舞台裏」を求めた。そんな折、この『笑う月』を書店で見つけた。文庫本の裏表紙の紹介文には「交錯するユーモアとイロニー、鋭い洞察。夢という<意識下でつづっている創作ノート>は、安部文学生成の秘密を明かしてくれる」と書いてある。「これだ!これを読めば、あの不安がらせる作品の数々の執筆の舞台裏を覗ける!」…そうして私はこの本を読み始めた。
 
 17の小編からなるこの一冊を貫いているのは「」という題材だ。1つ目は『睡眠誘導術』、筆者(ぼく)による眠れられぬ夜のための睡眠導入術の紹介から始まり、現実との境界が曖昧な夢の経験とその居心地の悪さが語られる。「うんうん、これは安部公房による夢にまつわるエッセイだ」そんな気分で読み進めていく。
 
 2つ目は表題作『笑う月』、「笑う月に追いかけられる」という悪夢の話から始まり、筆者(ぼく)にとっての夢と創作の関係が考察されていく。まさに安部文学の舞台裏だ。
 
 そしてそれ以降『たとえば、タブの研究』『発想の種子』『藤野君のこと』…と小編は続き、筆者(ぼく)の夢の記録の様子や、自身の作品への反映の例などが書かれていく。さらには11番目の『阿波環状線の夢』では、夢らしくない夢を体験した経緯から「書くという行為の意味」を再考するに至る。そして12番目『案内人』から17番目の『密会』まで…「ぼく」の夢の話は続き、幕は降りる。
 
 さて、この『笑う月』を読み終えた時、私は「安心」することができたのか?
 
 安部公房の作品では、代表作『壁』や『砂の女』に見られるように、「登場人物がどこかに行こうとして行き切れなくなってしまう状況」が描かれることが多い。この本は読み終えた後、読者自身が、誰のものともわからない夢に閉じ込められ、どこにも行けなくなる状況に陥る錯覚を味わうように書かれたのではないだろうか。
 
 思い返してみれば、『』や『他人の顔』の主人公も一人称の「ぼく」だった。安部文学において「ぼく=筆者」が保証されるわけがない。それなのに、「何気ない読み物のふり」という、作者の巧妙な罠に、私は最後まで気づけなかった
 
 ただ、この罠は、とても気持ちよく嵌まれる。それだけは間違いない。(Saito)
 

 

笑う月 (新潮文庫)

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