良書読書会のしおり

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名作日本文学読みなおし① 志賀直哉「城の崎にて」

 志賀直哉は、「小説の神様」とまで謳われた近代日本文学の巨人です。中でも「城の崎にて」(1917)は国語の教科書にも採録され、最も知名度が高い短編でしょう。しかし先入観を抜きにして読んでみると、これほど異様な短編も少ないように思える…。いったいどこがそんなに異様なのでしょうか?

 

①主語が、ない!

 「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」というこれ以上ないほどシンプルな経緯説明で始まる「城の崎にて」は、まぎれもなく一人称小説でありながら「僕」「私」という主語が顔を出しません。しばらく文章が流れて、ようやく出てくる主語は「自分」。話し言葉で「自分は~」と語る人は現在もよくいますが、一人称小説で使われると視点が語り手であるのに浮遊して外から眺めているような、不安な印象を与えます。「自分」の連打ぶりと異様さを引用で確認してください。

 

 自分にあの鼠のような事が起ったら自分はどうするだろう。自分はやはり鼠と同じような努力をしはしまいか。自分は自分の怪我の場合、それに近い自分になったことを思わないではいられなかった。

 

 ほとんど「自分」という二文字熟語のゲシュタルト崩壊!…ですが、この「自分という言葉で何を指しているのかわからなくなってくる」という現象が、後にふれる小説全体のテーマと響き合っているのです!志賀直哉、おそるべしです。

 

②会話が、ない!

 三文目「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。」にすでに、カギカッコなしで会話内容を要約して伝える「間接話法」の技法が使われています。作中で直接話法が用いられるのは、語り手の傷について「フェータルなものか、どうか?医者は何といっていた?」「フェータルな傷じゃないそうだ」という語り手と友人の会話一か所のみで、それも語り手が城の崎に来る前の出来事です。「城の崎にて」は会話が極端に少なく語り手の随想が極端に多く書かれている小説であり、どこか細部が異様にクリアな悪夢のような印象を与えます。

 語り手は「一人きりで誰も話相手はない。」と説明しているように終始孤独で、蜂の死骸や揺れる桑の葉を見ては考えにふける生活を送っており、会話の描写がないのは当然と思うかもしれません。ところが、魚串が頭部に刺さってしまった鼠に石を投げる群衆の描写でも、「見物人は大声で笑った。」「子供や車夫はますます面白がって石を投げた。」とやはりセリフは描かれず、この場面の悪夢性が増しています。

 

③「死に対する親しみ」が、ある!

 語り手は実在の軍人「ロード・クライヴ」の伝記に、クライヴが「死ぬ筈だったのを助かった」ことに使命感を感じる場面があったのを思い出し、自分も電車事故の経験をそのように激励される出来事として捉えたいがそうはできない。心の中には「死に対する親しみ」が起こっている、と独特な死生観を語り始めます。そして「城の崎にて」は、様々な事件が起こって登場人物の心情が変化する通常の小説と異なり、取り立てた出来事もないままに「死に対する親しみ」を強めていく語り手の心境が、そしてそれだけが段階を追って描かれているのです。これほど異様な小説は他にありません。

 

③について、小説の展開を追って詳しく見てみましょう。

【「城の崎にて」の構成】

1. 経緯と現状の説明。「死に対する親しみ」が起こる。

2. 蜂の死骸を見つける。死骸の「静かさ」に親しみを感じる。

3. 魚串が頭部に刺さった鼠が川で必死に泳いでいるのを見る。野次馬が石を投げるが鼠には当たらない。死の静かさの前に、死を逃れようと努力する苦しみがある恐ろしさを知る。

4. 桑の葉が一枚だけ動いているのを見る。風が吹くと動く葉は動かなくなった。

5. イモリを見つけ、狙わずに石を投げると当たって死んでしまう。「生き物の淋しさ」を感じる。

6. 「生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。」と感慨を抱きながら宿に帰る。

 

「城の崎にて」について志賀直哉は「鼠の死、蜂の死、いもりの死、皆その時数日間に実際目撃したことだった」と振り返っていますが、これは作家特有の誇張ととるべきかもしれません。「城の崎にて」の小動物の死は、クラシック音楽の作曲家が同じ主題を反復し高めていくように、語り手の「死に対する親しみ」を増幅する形であまりに完璧に配置されています。

 「2」で蜂の死骸を見る語り手は、「青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。」と自らの死を想像(夢想?)していた人物です。働き蜂/蜂の死骸の対比は、生/死・動/静の二項対立を含んでおり、語り手は後者に親しみを感じています。太宰治の作品群なら、自死の価値を述べ立てる人物が出てくる頃合いかもしれませんが、「城の崎にて」の語り手はそういったロマンチックな激情とは無縁です。

 「3」では、実際に生から死の領域に入ろうとしている鼠が描かれますが、語り手は鼠の苦しみに思いを馳せてしまい死の瞬間を直視することはできません。その代わりに「4」で、桑の葉が動きを止める(動が静になる)瞬間を目にします。ここで「動く葉は動かなくなった」ことの「原因は知れた。」と語り手が述べていることは後との対比で重要です(読者には、前後を読んでもまったく原因がわからないのですが(笑))

 「5」で語り手は、まったくの偶然からイモリの命を奪ってしまいます。飛んできた石が当たって「四寸程横へ跳んだように」跳ね飛ばされて死んだイモリですが、思えばこの小説は最初から何かが飛んできて当たるモチーフに満ちていました。志賀直哉自身の短編「范の犯罪」(ナイフ投げの曲芸で妻を殺してしまう男の話)、鼠に投げられる石、そして何よりも、「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした」語り手自身。語り手と電車の間に起きたことが、スケールを変えてイモリと石の間に繰り返されている。しかもそこに「原因」はなく、「偶然」の結果でしかない、「全く不意な死」なのです。

 「自分は偶然に死ななかった。イモリは偶然に死んだ。」ことに気づいた語り手にとって、生と死との境界・「自分」という個人と他界との境界は偶然の産物にすぎないように映っています。「自分」が当然抱くべき生の喜びの感情も、湧き上がっては来ません。最後の場面で帰路につく語り手は、もはや諸感覚の統合すら失ったように描かれています。

 

 視覚は遠い灯を感ずるだけだった。足の踏む感覚も視覚を離れて、如何にも不確だった。只頭だけが勝手に働く。それが一層そういう気分に自分を誘って行った。

 

 「城の崎にて」は、読者が当たり前に抱いている「生きてる感」を揺さぶり、五感すら失調した「気分」の世界へと突き落としてくる恐ろしい小説です。最後に志賀直哉が、なぜこの小説を発表したのか、筆者の想像を交えて書いて終えたいと思います。実際に志賀直哉が電車事故の療養で城崎温泉を訪れたのは1913(大正2)年10月であり、作品発表の1917(大正6)年5月からすれば、「それから、もう三年以上になる。」という最終段落の記述に無理はありません。しかし作品発表時「それから、もう三年」で読者が連想したものは、現在進行形の歴史的事件の方だったのではないでしょうか。言うまでもなく、1914(大正3)年7月に始まった第一次世界大戦です。

 作品発表が第一次世界大戦中だと意識して読む時、植民地支配に貢献したイギリス軍将校Lord Cliveへの違和感を表明している箇所は、別のニュアンスで立ち上がってきます。そして串を頭部に刺し通されながらも必死に泳いで逃げる鼠は、投げた石に当たって無意味に死んでいくイモリは、別の意味を持って見えて来ないでしょうか?あるいは以下の一節は、本当に死んだ蜂の描写なのでしょうか?

 

 死んだ蜂は雨樋を伝って地面へ流し出された事であろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、多分泥にまみれて何処かで凝然と[じっと]している事であろう。外界にそれを動かす次の変化が起るまでは死骸は凝然と其処にしているだろう。

 

 「城の崎にて」の語り手は、城の崎の外の世界で起こったことについては、何も語りません。ただ「自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」とだけ報告し、百年後の読者に読み返されるのをじっと静かに待っているのです。(M/T)

 

※ 原典の「蠑螈」を、「イモリ」と表記しています。