良書読書会のしおり

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名作日本文学読みなおし② 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、そのたびに不思議な思いにとらわれます。本を読まない小学生でも名前は知っている古典なのに、読んでいる途中も読み終わった後も浮遊感が続き、決して作品世界に慣れるということがありません。「ジョバンニ」や「カムパネルラ」という異国情緒あふれる名前の登場人物、星々の間を走る銀河鉄道、「本当の神様」をめぐっての宗教的な会話…といった道具立てが現実を離れて想像力の世界にはためいているのはもちろんです。しかしそれだけではない。この作品の中では文章自体が近代文学のお約束を離れて、「文学の夢」の世界に生きているのです。どういうことでしょうか?

 

 たとえば、主人公ジョバンニが銀河鉄道に最初に乗る場面を思い出してください。昔読んだはずの深い記憶を呼び起こすと、ジョバンニがプラットホームにポツリと立っている、そこに轟音を立てて光を放つ機関車がすべりこんでくる…という一連のイメージが浮かびませんか?この文章を読んでいるあなたがもし作家だとしても、きっとプラットホームの情景や機関車の外観に描写を費やすでしょう。しかし、それはおそらく後の映像化によって改変された、誤った記憶です。なぜなら、銀河鉄道の夜』にはジョバンニが列車に乗り込む瞬間の描写など存在しないからです。ジョバンニは丘の草に横たわって天の川を見つめており、気がつくと直前まで見つめていたはずの天の川を走る鉄道に乗り込んでいます。

 それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。/気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。
 
 ジョバンニがプラットフォームに立つ場面があってから列車に乗り込むのが「現実」の論理とすれば、気がつくと既に列車に乗っている『銀河鉄道の夜』で機能しているのは「夢」の論理です。誰もが経験するように、夜の夢の世界では願望がすぐに実現され、そのために物事の因果関係や物理法則すらおかしくなることがよくあります。「こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。」といった文章は、リアリズムの観点ではとてつもない悪文ですが、作者はこう書いて平然としています。「夢」の世界を象徴するのが、重力の存在しない銀河です。銀河鉄道の乗客の一人に鳥捕りがいます。鳥捕りは窓の外にいるのですが、気づくと列車の中にいます。不思議に思って「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と問うジョバンニに、鳥捕りは「どうしてって、来ようとしたから来たんです。」と答えます。ジョバンニがこの答えに納得したかはわかりませんが、何のことはない、ジョバンニ自身も気づくと乗り込んでいました。銀河は、意志や願望が現実の障害に出会わずそのまま実現する空間なのです。

 

 ここで銀河で起きる出来事を、ジョバンニの「夢」つまり願望であると解釈してみましょう。すると、銀河鉄道に初めて登場する時の親友カムパネルラの第一声が、「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」であることが注目されます。銀河鉄道の中では、ジョバンニとカムパネルラの二者関係だけが実現していて、ザネリなどの友人は乗ることすらできずあらかじめ排除されます。ジョバンニは「(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」と後付けで錯覚して幸福に浸っています。

 列車が進むうち乗り込んでは話しかけてくる個性的な乗客達も、結果的にはジョバンニとカムパネルラの関係を強める役割を果たしています。ジョバンニは、カムパネルラとの二人の会話を邪魔してくる鳥捕りや女の子を非常に嫌います。障害のある何とやらほど燃えるというやつで、女の子達が降りたとたん、「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」「うん。僕だってそうだ。」と二人で絆を確認し、二者関係は強化されてゆきます。

 しかし『銀河鉄道の夜』が後半で残酷にも示すのは、「純粋な二者関係」など「夢」の世界ですらも成り立たないということなのです。

 

(つづく)