良書読書会のしおり

なんばまちライブラリーが惜しまれて閉館したため、新大阪で開催しています。初参加の方大歓迎。現在は季節ごとに開催。

網羅への諦念が漂う博物誌 — 寺山修司『幻想図書館』(1982)

 今期放送中の、幾原邦彦監督のアニメ『さらざんまい』を観ていて、「これはまるで寺山修司じゃないか!」と思ったのをきっかけに、改めて寺山修司の諸作品に興味を持ち、少しずつ入手を試み始めている。

 その中の一冊、『幻想図書館』は1982年に出版されたもので、寺山修司が、自身の選んだテーマに沿って世界の稀書を紹介していく、博物学的な書評集寺山修司が亡くなったのが1983年なので、最晩年の著作の一つということになる。このタイプの書評は、彼とほぼ同世代であれば澁澤龍彦が、のちの世代であれば荒俣宏が得意としている印象であるが、寺山修司が書いているのは意外な気がする。

 先に挙げた澁澤龍彦荒俣宏の書評との大きな違いは、「自分の話」が頻出することではないだろうか。特に、寺山修司作品につきまとう「」や「幼少期の孤独」そして「見世物小屋」のイメージが、「自分の話」として度々出てくる。あくまで書物についてマニアックに語っていく印象の澁澤や荒俣ならば、同じ書物を紹介するにしても、きっと別の手つきになるだろう、と思ってしまう。これを好きととるか苦手ととるか…読者を選ぶのではないだろうか。

 寺山修司の著作には、この『幻想図書館』の姉妹本とでもいうべき『不思議図書館』という題名のものがある。内容はほぼ同様だ。また他にも彼は『さかさまシリーズとして、女性や世界史上の英雄や怪人を羅列的・網羅的に語っていく著作群もある。博物学的アプローチの著作が実は多いのだ。

 しかし、寺山修司博物学的アプローチの諸著作からは、その項目の選択の仕方や並べ方、行間の端々から、世界を網羅しようとしつつも、世界を捉えることを最初から諦めている気配が感じられる。それゆえに、他の作家や研究者による博物学的アプローチの諸著作と比べて、「知的高揚感」以上に「知の限界への寂しさ」を感じてしまう。寺山修司独特の寂寥感のある博物誌。これは私だけの感覚なのか、それとも共感してもらえるものなのか、如何だろう。

 私が、映画『田園に死す』を観て衝撃を受けたのが二十年近く前のこと。それから寺山修司の作品を特に摂取せずにここまできた。多才な彼の残した文章は、小説、詩歌、評論、ドキュメンタリー、戯曲、作詞と多岐にわたる。これから少しずつ読み進めていく中で、寺山修司のどんな姿が見えてくるのか、今から楽しみである。(Saito)

 

幻想図書館 (河出文庫)

幻想図書館 (河出文庫)