良書読書会のしおり

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「終わった感」で読み解く2019年映画 『スター・ウォーズ』の夜明けを待ちながら

「旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど」― ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」

「それは始まりの終わり、終わりの始まりだったんだ」― 「ザ・バンド」ロビー・ロバートソン、映画『ラスト・ワルツ』での発言

 

 過ぎ去った2019年は、ハリウッド映画が「シリーズの終わり」に直面した時代だった。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)、トイ・ストーリー、そしてスター・ウォーズ…。これらが共通して示したのは、かつて『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(1990)や『スパイダーマン3』(2007)が行ったような、「シリーズを真の意味で終わらせる」作品が、いよいよ成立しづらい時代になっているということだ(知られる通り、スパイダーマンは俳優を変えて二度もリブートされるのですが)。上に挙げたMCUトイ・ストーリースター・ウォーズが、いずれもディズニー傘下のシリーズであることは、何かを象徴している。MCUは『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』によって「フェイズ3」を終え『ブラック・ウィドウ』(2020年5月公開)で「フェイズ4」の幕を開ける準備を整えたばかりだ。『トイ・ストーリー4』には新しい仲間と冒険する続編が作られるだろう。「すべて、終わらせる。」とポスターに謳っているように、『スター・ウォーズ エピソードⅨ/スカイウォーカーの夜明け』(以下『夜明け』)で9部作は完結した。しかし、生みの親ジョージ・ルーカスが権利をディズニーに売却した時に「今後100年スター・ウォーズは作られ続ける」と皮肉交じりに予言した通り、また新たな三部作が公開される日も近いらしい。全ての出資元であるディズニーにとって、これらのシリーズは「映画」である以上に莫大な出資金を回収し利益を得るための「コンテンツ」なのであり、真に「終わって」はいけない、今度こそ「終わったのだ」と思わせながら半永久的に「続け」なければいけない「商品」となっている。この「本当は終わってはいけない終わり」を筆者は「終わった感」と名付け、2019年のシリーズ映画がいかに「終わった感」を出そうとしていたか、そしてそれに成功していたのか?を考えていきたい。

 

【以下、MCUトイ・ストーリースター・ウォーズの作品詳細に踏み込みます。未見の方は引き返してください。】

 

 『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、「終わった感」を見事に演出した傑作である。前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のラストで、サノスの「人口半減計画」と引き換えに消滅したインフィニティ・ストーンを、過去に遡って集めに行くという斬新な脚本。過去作品を再現するために再び集められた超豪華キャスト。これらの趣向により、『エンドゲーム』は同窓会の楽しさと過去作プレイバックの充実感に溢れていた。

 しかも、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』から顕著になってきたキャップの「キャプテン・アメリカとしてでなく一人の人間として行動する」というテーマも見事に回収し、アイアンマンファンもキャップファンも納得する結末を付けたのは、監督・脚本を担当したルッソ兄弟初め制作チームの勝利という他ない。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でルッソ兄弟の才能に感動して作品を追ってきた筆者にとっても、『エンドゲーム』は感動的な映画となった。また、「タイムトラベル」を可能にする偶然が「ネズミ」の振る舞いに委ねられているのも、ディズニーが作品を作らせている現状への気の利いた風刺になっている。

 

 『トイ・ストーリー4』は、「真に終わらせた」完璧な作品である『トイ・ストーリー3』に挑戦してさらに「終わった感」を出すという、離れ業に成功した映画である。『トイ・ストーリー3』のラストで、アンディの元を離れ、ボニーの物になったウッディ。しかし、おもちゃでボニーと遊ぶアンディの姿に感動するあまり、観客の誰も「そもそもなぜウッディは、というかおもちゃは、人間の物にならなくてはいけないのか?」という問いを浮かべられなかった。

 『トイ・ストーリー4』は、この問いを改めて提起するとともに、ゴミから生まれた「フォーキー」というキャラクターとの対比で「そもそもおもちゃとゴミは何が違うのか?」という根源的な問いも投げかけ、ラストではウッディをシリーズの呪縛から解放し自由にした(これは『エンドゲーム』でのキャップの扱いにも非常に近い)。

 やがて作られるだろう『トイ・ストーリー5』はまだウッディの話なのか?それともバズたちが代わって主人公を務めるのか?まだわからないが、それは今までの「トイ・ストーリー」とは全く異なる、興味深い映画になるのだろう。今から見るのが楽しみだ。

 

 さて、スター・ウォーズである。2019年は本来なら、スター・ウォーズサーガが完璧に幕を降ろした年としてファンの心に刻まれるはずだった。しかし、そうはならなかった。個人的な感想を言うと、『夜明け』を見終えた筆者に訪れたのは決して夜明けではなく、どこかで一度聞いた手柄話ばかりの三次会に付き合わされたあげく調べたら終電がなかった時の徒労感である。「終わった感」のない終わり。新たな「新たなる希望」になるはずだったはずの新・新三部作(EP7~9)が、なぜこんなことになってしまったのか?


 『夜明け』には、確かに最初から不利な要素があった。1977年から始まるシリーズの、42年という伝統の重み。創造主であるルーカスが身売りしてディズニーが作っていることの正統性の不足。事前に発表された人事(「『ジュラシック・ワールド』のコリン・トレヴォロワが監督する」)からの、監督降板劇。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』双方の、「気になったアナタ、この真相は完結編を乞うご期待!」とテロップが出そうな、結末の先送り感。…しかし、それらの逆境を跳ね返してこそのディズニーではないのか?職人監督J・J・エイブラムスではなかったのか?


 冒頭のオープニングロール、「The dead speaks!」の一文にこの映画のデザインは明らかだ。『最後のジェダイ』でスノークという敵役を殺してしまった穴埋めに、旧三部作から皇帝パルパティーンという絶対悪をもう一度担ぎ出す。EP6であれほど見事にアナキンに溶鉱炉に落とされた皇帝の、ゾンビなのかクローンなのかもわからない形で。しかし甦った「死者」にしゃべらせることは、そのまま旧三部作の、すなわちルーカスの重力場に牽引されることを意味する。カイロ・レンにマスクを壊させ、ルークにライトセーバーを捨てさせ、ヨーダジェダイの木を燃やさせることで今までの伝統との決別を告げた『最後のジェダイ』の路線は、ここですでに放棄されたのだ。


 以後『夜明け』は、かたくなに『最後のジェダイ』との連続性を否定し続ける。カイロ・レンは、自分で壊したマスクの修理を依頼する。霊体になったルークは、レイが捨てようとするライトセーバーを受け止め、隠していたXウィング戦闘機を水の底から引き上げてみせる。ローズと恋に落ちたはずのフィンはレイが気になっており、ローズは全ての任務で待機を命じられる。やましさを持った嘘つきが、相手も覚えていない細かい嘘を反復して自分の記憶までも捏造しようというように、フロイトが「反復強迫」という言葉で表現したように、繰り返し。

 カイロ・レンは、修理したマスクを被っている時に「継ぎ目が気になるか?」とハックス将軍に問いかける。しかし、修理の出来栄えがまずく継ぎ目が粗いのを気にしているのは、登場人物ではなくJ・Jを初めとする制作陣の方なのだ。彼らは、彼らが水の底に沈んだと見なした『最後のジェダイ』を、今回のルークのように皮肉な表情でもう一度浮かび上がらせたつもりだったのである。歴史修正主義というダークサイドに転落する危険に身をさらしてまでも。


 それでは、『最後のジェダイ』を否認した『夜明け』は、恭順を誓う旧三部作に匹敵する出来栄えなのだろうか?残念ながら、答えはノーである。ルーカスが黒澤明七人の侍』から拝借した、フレームがフェードしていく画面切り替え(紙芝居形式と呼ぶべき?)は、採用されていない。そしてそれとともに、旧三部作を特徴付けた危機また危機の活劇のテンポも完全に失っている。皇帝の居場所への手がかり1をつかむための手がかり2、それを探すための試行錯誤に、心浮き立つ人はいないだろう。だって、そもそも最初のシークエンスでカイロ・レンが、皇帝に会ってしまっているのだから…。


 何が残ったか?旧三部作の活劇性もない、新三部作のCGへの偏執狂的なこだわりもない、『フォースの覚醒』の実物へのこだわりもない、『最後のジェダイ』の新鮮なフラッシュバックやスローモーションの導入もない。残ったのはただ緩慢で必要手順を消化するだけの展開と、近年のファンタジー映画の画調で皇帝の「電気ビリビリ」をやりました、というだけの面白味のない画面だ。

 『夜明け』の途中で短剣に刻まれたシス語を解読するために、C-3POのメモリが消去される、というくだりがあるが、「記憶喪失」こそこの映画を象徴するモチーフだ。「チューバッカが死んだ!→いや、死んでなかった」「カイロ・レンが死んだ!→いや、死んでなかった」「C-3POの記憶が消えてしまった!→いや、R2-D2のバックアップで復元できた」。万事この調子。もしかするとJ・Jは、観客が過去作や『夜明け』のそれまでのストーリーの記憶を失った状態で見るよう暗に示唆しているのかもしれない。いや、さすがにそんなことはないのかな…。


 どれだけ「終わった感」を出せなくても、2時間半過ぎるとハリウッド映画は物理的に終わってしまう。「すべて、終わらせる。」ためには、結局アナキンでも倒せていなかった(とこの映画で判明した)皇帝を、みんなで何とかして倒さないといけない。そこで、『最後のジェダイ』で両親が「何者でもない」と明言されたレイの出自を変更し、なんとシスの伝統を受け継ぐパルパティーン家の末裔だったことにする。『夜明け』以前の8本の映画で、皇帝に息子か娘がいると言及があったことは一度もないにもかかわらず。

 それは百歩譲るとして、真の問題は、ヒロインが「何者でもない」がゆえに観客皆が参加できるかもしれなかった(『最後のジェダイ』が可能性を広げた)スター・ウォーズサーガを、結局スカイウォーカー家とパルパティーン家のお家騒動に矮小化してしまったことである。結局「スター・ウォーズ」は最初から最後まで選ばれし者たちだけの話だったわけで、脱走兵フィンも『最後のジェダイ』ラストで箒を構えていた少年も関係なかったのだ。


 言うまでもなく、皇帝は強い。敵を倒す役割を与えられたのがレイである。しかし、ジェダイの修行も正式に終えていないレイに、衰えているとはいえ皇帝が倒せるはずがない。また、うっかり倒せてしまったらそれはそれで話が盛り上がらない。映画的にそこそこ盛り上げながら、かつ「終わった感」を出すにはどうすればいい?ここでもJ・Jが持ち出すのが過去の伝統である。倒れたレイの耳に、オビ・ワン、ヨーダ初め過去作のあらゆるジェダイ・マスターの声が響く。そして立ち上がったレイは、一本のライトセイバー(ルークから受け取ったもの)だけでなく、二本目のライトセイバー(レイアが持っていたもの)をXの形に構えて、皇帝のビリビリを跳ね返す。わざわざ呼び戻した「死者」を、過去の伝統という重みで倒すことによってしか、『夜明け』は終わりを迎えることができなかった。


 それが幸福な終わりだったとは、筆者には思えない。敗因は、今まで以上に「スター・ウォーズ」が「商品」であるために(そして『最後のジェダイ』が買った不評のために)、観客の目を意識しすぎたことだろう。皇帝の復活を見届ける黒い観衆たちに実在感が全くないのは、あれが「皇帝に代表される過去の伝統を信奉する観客」の具象化だからで、実はそんな観客はあまりいないのだ。ほとんどの観客は過去の復古でなく、新しい何かの始まりを見たかったはずなのに…。だがそんな仮想の観客に忖度して一挙手一投足が乱れた作品を、ファンは「遠い昔、遥か彼方の銀河系」でのお伽話として受け取れるだろうか。誰がどう見ても21世紀の資本主義社会での話だろう。

 

 
 一意見です。筆者が見たいのは、「終わった感」を嘘でも出すために観客の目を気にしながら制作者たちが会議室で四苦八苦して作ったような「コンテンツ」ではありません。見たいのは「映画」です。資本の自己運動の中に映画が巻き込まれてしまっている近年、「終わった感」というカタルシスの感覚を観客の胸に呼び起こしながら続編も作れる作品を撮るというミッションは困難を極めてきています。そしてディズニーは、制作過程に関して間違いなく「帝国」として振る舞っています。にもかかわらず筆者は、デス・スターに風穴を開けてくれる「新たなる希望」の登場をスクリーンを見上げて待ちながら、今年も映画館に通おうと思います。May the force be with us! 今年もよろしくお願いします。

 

良書読書会 @gbpresoc