良書読書会のしおり

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21世紀名作映画この10本①:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とつなぐ力

二人のマックス

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)は独白から始まる。"Once I was a cop." その第一声を聞いた瞬間、観客の脳裏には『マッドマックス』(1979)でのメル・ギブソンの勇姿がよみがえるだろう。車に押し潰される娘のフラッシュバックも、1作目の暴走族に轢かれ死んだ幼い息子のイメージを大枠で反復する。そう、本作は三十年ぶりに帰ってきたマックス・ロカタンスキーの冒険譚なのだ。もともと寡黙なはずのマックスの独白は、過去シリーズのメル・ギブソンと本作のトム・ハーディーという異なる二人の俳優=二人のマックスをつなぎ、同一性を持たせる役割を果たしている。

 

作用と反作用

 『怒りのデス・ロード』の世界は、厳密な作用・反作用の法則が支配している。

① 冒頭のシークエンス、マックスは逃亡を図りクレーンのような鉤に飛び移るが、振り子の反動で戻ってきてしまいウォーボーイズに捕まってしまう。

②「人食い男爵」の兵士は棒高跳びのように棒を振り子に使って相手車両に乗り込む。

③ イモータン・ジョーの本拠シタデルはさまざまな部分が鎖でつながれ、滑車を使ったリフトまで備えている。

④ ぬかるみにはまって動けないウォータンクは、ウィンチを木にくくりつけて張力を得ることで脱出することができる。

⑤ イモータン・ジョーお抱えのギタリストはワイヤーで吊るされているし、観客に向かって画面を飛び出そうとするギターはバンドの張力で奥に戻る。

 …などなど。本作の画面にみなぎるダイナミックな興奮は、この独特な世界観からもたらされている。この世界では、普通の人間は作用と反作用の力学を生きるほかない。したがってそこで崇拝されるのは、個々の力の足し算をはるかに超えた力を生み出す2つの存在である。それは、V8エンジンとイモータン・ジョーだ。この2つの存在はいわば、この作品の核となっている。

 

支配と従属

 圧倒的な力を持つがゆえにイモータン・ジョーは人々を束縛し、所有物(property)として支配する。マックスは手錠と口枷をかけられる。乳母は乳房をつながれ母乳を搾取される。妻たちには貞操帯を付けさせ、まるで金庫のような堅牢な部屋に閉じ込める。"We are not things. "と落書きして脱走した妻たちとフュリオサをジョーが必死になって追うのも、愛憎のためというより妻たちとお腹の中にいる嫡子をシタデルにつなぎとめるためだ。ここでは「つなぐ」モチーフがすべて支配と従属に転落してしまっている。ちょうどウォーボーイズたちが画面に映るやいなや最初にした行動の一つが、ウォータンクにその燃料を供給する車両を「つなぐ」ことだったように。しかし皮肉にもジョーの追跡は、スプレンディドとお腹の子をつないでいたへその緒を医師が捨て去るように、関係を切断する結果しかもたらさなかった。

 

「つながれる」マックスと「つながる」マックス
 マックスがニュークスにつながれたのも、当初は「血液袋」としての使用価値のためでしかなかった。マックスは気絶したニュークスの手を吹き飛ばして鎖を外そうとするが銃が不発、嫌々ニュークスを担いでいくことになる。しかしつながれた身どうし文字通り運命共同体としてフュリオサ&妻たちと戦い協力して銃を組み立てた時(名シーンの一つ)、鎖は支配ー従属とは別の協働性を表している。同じことはマックスとフュリオサにも言える。当初は銃で支配されたり交換条件を提示されたりでやむなく共に行動していた。が、二人で協力して峡谷を突破したりマックスの肩を支えにフュリオサがライフルを撃ったり(またも名シーン)する中で共闘関係が形成されていく。最後にはマックスが自分の意志でフュリオサにシタデルに戻る作戦を提案して握手=手を「つなぎ」、また瀕死のフュリオサに自らを血液袋として「つなぐ」までになるのだ。『怒りのデス・ロード』の主人公たちの間には、イモータン・ジョーと周囲との間の支配=従属関係とは異なる、共同的=協働的な関係が生まれている。

 

切り返し

 技法面でも同じことが言える。編集という、シーン間のつながりに着目してみよう。本作の編集には人物と人物の視線のイマジナリーラインを守る「切り返し」が多用されている。例えばフュリオサがウォータンクでウォーボーイズを蹴散らしていく時、運転席のフュリオサのカットの次に、轢かれる側のウォーボーイズの表情や視線のカットが割り当てられる。作品世界のルールが作用ー反作用の力学であれば、作品を作るルールが切り返しなのだ。そしてそれらは一つの運動として観客に快感を与える。
 カットの連接は視線のドラマを生む。マックスとフュリオサは、「血液袋」時代に車にくくりつけられていたマックスが偶然フュリオサと目が合って以来、クライマックスでのガラス越しの切り返しやラストシーンに至るまで何回も視線を交換し合う。ジョーの妻たちとの場面についても、マックスをスプレンディドが助け、そのために撃たれそうになる彼女の無事を運転席からマックスが確認して親指を立てるシーンの切り返しは、後にスプレンディドの死が続くだけにいっそうエモーショナルだ(スプレンディドが轢かれるシーンの処理はマックスのフラッシュバックでの轢かれる娘の表情と重ねられている)。

 

見返さないイモータン・ジョーと見返されるニュークス

 しかしイモータン・ジョーは、自分の背中に粉をふきかけるウォーボーイズや遥か下から自分を双眼鏡で捉える民衆に対して視線を返そうとしない存在なのだ。序盤でフュリオサを追いかけるニュークスはジョーが自分を見てくれたと感じ、"He looked at me in the eye! "と有頂天になる。しかしそれは錯覚にすぎなかった。ニュークスは血液袋にすぎなかったマックスにすらも、"Witness me, blood bag! "と呼びかけざるを得ない、見返されることに飢えていた人物だ。『怒りのデス・ロード』は"I am awaited. "と盲信しながら"Witness me!(俺を見ろ)"と仮想の他者に呼びかけていたニュークスが、現実の仲間たちに視線を切り返してもらいながら幸せな最期を迎える映画なのだ。ニュークスがハンドルを切る場面が異様に感動的なのはそのためである。一方ジョーは、フュリオサの"Do you remember me? "の問いかけをまさに"in the eye "でただ一度見返しながら死んでいく。

 

結合と解放

 フュリオサが故郷を目指して飛び出した物語は、振り子のように、(あるいは切り返しのように?)現在のシタデルに帰還する場面で終わる。ヒーローとしての役割を終えたマックスは、一度フュリオサの視線を受け止めてうなずき、民衆の中に消えていく。その視線の結合はお互いを支配するものでなく、お互いを解放することで新たに結びつけるものだ。ラストシーンのフュリオサの表情に観客は、『マッドマックス2』のマックス自身(両者とも、最後には片眼を負傷している!)や『マッドマックス/サンダードーム』の女支配者の残像を見ることができる。しかしそれだけではない。三十年間の空白を打破してシリーズを結合するという偉業を成し遂げた『怒りのデス・ロード』は、まさに今、未だ撮られざる新たな「マッドマックス」に向かい開かれたところだ。

(M/T)