良書読書会のしおり

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キリキリとゾワゾワ—吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(1961)

 私が生まれて初めて吉行淳之介に触れたのは『樹に千びきの毛蟲』だった。といっても、この題名がつけられた彼のエッセイ集の中身は未だに読んだことはない。幼少の頃、実家の本棚に並んでいた数ある背表紙の中で、この題名がいつも目に留まり続けたのを覚えているのだ。その題名から想起される、見えないものにゾワゾワする感覚が、子供心に新鮮で印象的だったのだろう。
 
 『闇のなかの祝祭』は、昭和36年に書かれた表題作と、昭和30年から35年の間に書かれた前駆的な短編『青い花』『海沿いの土地で』『風景の中の関係』をまとめた作品集である。後者の3編は、初期短編集『娼婦の部屋・不意の出来事』にも収録されている。主人公・沼田沼一郎と愛人・都奈々子と妻・草子との関係を描いた私小説的な表題作は、発表当時モデル論議を呼び起こし、スキャンダラスな扱いを受けたと言われている。
 
 確かにこの4編には、女の睡眠薬オーバードーズによる自殺未遂や、台所用品に対する感情の動き、愛人の女性が男の家を隠れて覗きに来るなど、同じようなエピソードが繰り返し描かれている。もしかすると、吉行淳之介の実体験に基づいたものなのかもしれない。
 
 まず、この表題作、現代的観点から言えば政治的には全く正しくない。妻に平気で三度も四度も堕胎させているわ、妻子がいる中で女優と浮気だか本気だか判然としない付き合いを続けるわ。これが国や時代がまるっきり違うならば、「ああ、そういう時代もあったろうさ」と思えるかもしれない。しかし、舞台が昭和30年代の日本という、なまじっか現代と連続した線上にあるから、より生々しい。今なら、この小説を読んでいる、というだけで糾弾されかねない気すらしてくる。
 
 にも関わらず、この小説には抗いがたい魅力があるのだ。
 
 私は吉行淳之介の作品の魅力のひとつは、緊張感の描写だと思っている。登場人物たちの人間関係は安らぐ瞬間をほとんどみせず、ある時は激昂した感情のぶつかりで、ある時は静寂の中で、キリキリという音がするかのような緊張感が持続していく。決して心地いい訳ではないが、その緊張感のふと味わいたくなるのだ。 
 
 また『闇のなかの祝祭』では、音が重要なモチーフになっている。映画館でのセリフ、街角を流れるレコードの歌声、電話のベルの音、アパートの呼び鈴。これらもまた物語に緊張感を帯びさせてゆく。主人公の沼田にとって、外部で鳴り響く音は、警報であり、預言でもあるのだろう。
 
 そしてラストは、『暗室』や『星と月は天の穴』など吉行淳之介の他作品でも見られるような、わずかばかり現実からずれたような鮮烈かつ陰惨な光景で幕を閉じる。光や明るい色と、そこに吸い込まれるように窓を開ける漆黒の闇の一点、という対比の鮮やかさ。吉行淳之介の頭の中に、先にそのビジュアルが天啓のように浮かび、それを描きたくてそれに符合しうる物語を後から考えたのではないか、と思えてしまう。この詩的なラストシーンもまた吉行作品の魅力だと思う。
 
 この表題作では、沼田のアパートに贈り物を送りつけて来たのが誰なのか、など、謎は謎のまま残る。何も解決はしない。だからこそ、世界の何処かで今もまだ、沼田が、あるいは誰かが、もしかすると読者である私が、キリキリとゾワゾワの狭間で怯え続けているのではないかと、夢想ぜずにはいられないのだ。