良書読書会のしおり

なんばまちライブラリーが惜しまれて閉館したため、新大阪で開催しています。初参加の方大歓迎。現在は季節ごとに開催。

村上春樹読書会記録 『海辺のカフカ』

М   さあ始まりました!村上春樹読書会!
猫先生 パフパフパフ!
М   第1回は『海辺のカフカ』をお送りします。
猫先生 イェーイ!
М   МCはわたくしМが、みなさまのお相手させていただきます。これから一時間よろしくお願いしまーす!
猫先生 よっ日本一!
М   ではメンバー紹介!
猫先生 レギュラー相談員の猫先生です。よろしくー!(2名の心ない拍手)
М   そして…?
何苦楚 スペシャルゲストの何苦楚ですよろしくお願いします。(2名の心ない拍手)
М   以上3名で進行していきます。今日はねー、『海辺のカフカ』ということで、これから春樹作品を全作品読んでいくわけですけれども、えー、その中でも
店員さん ブレンドご注文のお客様?
(タイミングの良さに全員爆笑。店員さんがコーヒー並べ終わるまで中断。)
М   ということでおわかりの通り、星乃珈琲で収録させていただいております。名前がね、この小説に「ホシノくん」が出てくるということで
何苦楚 そうそう。
М   …それにちなんで、ここを会場にしたんですけども。
何苦楚 ホシノくんに似合わぬ、ハイソな感じですね。
(全員沈黙)
猫先生 おっ、さっそく発言が飛び出しました!?そのこころは?
何苦楚 どういうフリなんだよ?
猫先生 まずなんかテーマ設定しよう。
М   ではテーマ!海辺のカフカ』は、2002年に発表された、村上春樹の10番目の長編小説である。
何苦楚 急に○×クイズみたいだな。
М   で発表当時は、少年が主人公だとか、謎めいたタイトルだとか、いろいろ物議をかもしたと。みなさんは記憶にありますか?
猫先生 まるで記憶にない。
何苦楚 2002年だっけ?初めて読んだのが2005年ぐらいだから、わりと最近の、そこそこ新しい作品と認識していた。
М   だから『1Q84』(2009-10)で最近大ブームなったけど、ああいう感じで新潮社が広告打ったのの最初がこれやねん。
何苦楚 あそうなんだ。
М   っていうか初めて新潮社と組んだんちゃうかな?(カバー折り返しの著作一覧を見て確かめる)あ、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)も新潮か。
何苦楚 新潮だったら『ねじ巻き鳥クロニクル』(1994-95)もそうだ。
М   あ『ねじ巻き鳥』もそうなん。じゃあだいたいそうやん。(一同失笑)
で「少年の話らしい。」とか「四国の話らしい。」とか謎めいたキャッチコピーで引きつけて、発売日に平積みにして爆発的に売る、っていうハルキブームの最初がこの作品。
猫先生 じゃあ新潮社がえらいんだね。
何苦楚 ある種ノーベル賞的な流れはこっから生まれたのか。
М   そう!(断言)
猫先生 選択は正しかったわけだね、第1回にこの作品を選んだの。
М   で、この読書会の主旨が、村上春樹ノーベル文学賞を、まあもう獲れないわけですけれども、「ノーベル文学賞に一番近づいたのはいつなのか」を検証するっているのをテーマにしています。まず『海辺のカフカ』、これ上下巻に分かれていて単行本も同じ形式です。で同時発売。だから『ねじ巻き鳥』とか『1Q84』のあの1・2出してから最後に3出す、みたいなのとはちょっと違って、最初から完結したものとして出されてる。で二章構造が採用されていますね。これはみなさんどう思いますか?
何苦楚 なんで急に国語の先生みたいなったんだ?
猫先生 はいはーい先生、「二章構造」って何ですかー?
М   奇数章でカフカ少年の話、偶数章で戦時中の謎めいた事件の話からナカタさんの話、って出てきてますね。で交互に織り重なるようになっていって、結局カフカ君とナカタさんは出会わない、出会わずに終了するってことになるわけです。でもカフカ君が行った高松にナカタさんも行き、カフカ君が泊まっていた甲村図書館に行って佐伯さんに会い、って交錯するように描かれています。これは他の村上春樹作品で言うと『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、私立探偵「私」と、「僕」やっけ?あの春樹みたいなクソなやつ(何苦楚爆笑)との二重主人公みたいなのがこれの源流にあって、もちろん今の読者的には『1Q84』の青豆と天吾を思い出させるわけです。この構成はみなさんどう思いますか?
何苦楚 まあ『世界の終り~』の続編っぽいっていうのは言われてきたわけで…
М   そうなん?!どのへんが?
何苦楚 つまり、森に行った影がどうなるかっていうのが書かれてるんだ。(ここから『世界の終り~』のあらすじ解説。ネタバレを含むので割愛)。で「僕」が「森に残るんだ」みたいなこと言って終わる。
М   それで当時の読者が、「はあ?なんやねんそれぇ?」って思った人が半分と、「すごい結末や」と思った人が半分。普通やったら幻想の中にとどまるなんて結末ありえないやん。現実に戻って終わる、戻ろうよぐらいな。スタジオジブリでも何でもそう。やけど『千と千尋』で言ったらあの世界から戻らずに終わっちゃうぐらいの衝撃。
何苦楚 そうそう、それぐらい。でもこの結末は村上春樹の中でも揺れてるところで、その前に「街と、その不確かな壁」っていうプロトタイプみたいな中編が、どっかの雑誌に掲載されていて[注: 1980年『文學界』9月号]、そこの結末は完全に「僕」が「世界の終り」から逃げ出すっていう形で終わるわけ。それが長編になった時に結末が変更されて、『海辺のカフカ』でまた「森に行った僕がどうなるのか」っていう問題意識が…。
М   いや森から帰ってくるやん!帰ってきちゃうやん!
何苦楚 そう、それが春樹の思想の転回というふうによく言われる。っていう意味において『ハードボイルド・ワンダーランド』の続編と考えられる
М   なるほどー。
何苦楚 …って言われるんだけど、最初読んだ時全然わかってなくて。今回読んだ時まあそうなのかなと思ったけど。
М   でもさ、『ハードボイルド・ワンダーランド』は明確に「世界の終り」っていう世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」っていう世界が別の物としてあるやん?
何苦楚 そうそう、時間的にもバラバラだし。
М   一方『海辺のカフカ』は、同じ日本で、同じ時空間の中にいると。田村カフカ君の世界の中に「森」っていうのがあって、それは『世界の終り~』のやみくろとかが出てくる謎の世界、もっと言うと『1Q84』のリトル・ピープルが出てくる謎の世界みたいに、作品世界の中の上位にある、謎のワールドになってる。でそこにつながるためには、「入り口の石」的なアイテムが必要、って構造になってるよね。RPGと一緒で。
    で『ねじ巻き鳥~』の話が出たけど、あの時はノモンハン戦争、今回『海辺のカフカ』では日本での戦時体験をアメリカ側のロバート・オコンネル少尉が質問するっていう文書が差し挟まれてて、現在と過去の二層がある。ただ、『ねじ巻き鳥~』にあった戦時中の残酷な描写は、今回は過去パートにはなくて、現在でナカタさんが対決するジョニー・ウォーカーの猫殺しの所が突出して残酷な描写になってる、と。
何苦楚 これ読めないよね?この心臓食べるところ。目を背けたくなる。
М   そうか?
何苦楚 あれ?そうでもない?
М   全然リアリティーなかったから何とも思わんかった。となりの山田くん』くらいの作画でスプラッター描写されてる感じ。
何苦楚 それは逆に怖いだろ!

   *   *   *


М   その「二層構造」の話はどうですか?他に何か意見ありませんか?
何苦楚 時間軸がよくわからないってのはある。森に入っていくのと入り口の石をひっくり返すっていうのがかなり連動してて、そこらへんで登場人物がみんな「今日は何曜日か」って曜日を意識するようになるんだよ。
М   そうなん?!それはすごい!
何苦楚 図書館が閉館なのが月曜日で、章ごとに一日くらいずれてるんだ。あと雷の話が偶数章ではあるのに、奇数章ではふれられていなくて、ほんとに同一の時空間なのか…。例えば第36章で、まあこれはホシノくんだけど、「…となると今日は金曜日だ。」(下p237)ってある。で「僕」の方は、第39章で「今日は火曜日だと僕は計算する。」(下p301)って思ってる。たしか火曜日がホシノ青年とナカタさんが図書館に行く日なんだよ。なぜなら月曜日が閉館で、その「翌朝の11時」(下p317)にもう一度出かけるから。でも第40章は月曜日の描写から始まっている。
М   だからずれている、と?
何苦楚 まあずれているのか、単に「僕」が先行していてホシノ・ナカタの二人が追いかけているのか…。だからほんとに同一世界なのかっていうのは…
М   え、同一世界ではあるやろ?やって佐伯さんに最後会うやん。
何苦楚 まあもちろんそうなんだけど、ある種途中がパラレルワールド的に展開してる可能性がある。やたら曜日の話を章の先頭に持ってきて時間を意識させる書きぶりになってるのが気になった。
М   なるほど!
何苦楚 これは俺の読み方だから、ちゃんと確認すればMの言う通り同一世界ってわかるかも。
М   同一世界であって、別の時間を切り取ってあえて並べてるっていうのも考えられるよな?それが一番重要になるのって、ナカタさんがジョニー・ウォーカーを殺害するやん?それとカフカ少年の手に血が付いてるのが同時なんかっていうとこじゃない?
猫先生 すごい取り残された感あるけど…じゃあ質問しよう。ナカタさんがジョニー・ウォーカー殺したっていうのと、少年の手に血が付いてみたいなところは…別に関係ないんでしょ?
М   え、ないんですか?
猫先生 だってナカタさんの殺人はナカタさんの章で完結してるわけじゃん?だから日付が一致してたりしてなかったりはあんま関係なくない?
М   それはリアリティーのレベルでは、田村カフカ君はこの時東京にいなかった。けど、それこそ「メタファー」のレベルでは、自分が手を汚したってことになるんちゃうかな?
何苦楚 第9章で血が付いている描写があるから、「5月28日」(上p141)。ジョニー・ウォーカー殺すのはどこだっけ?
猫先生 もっと後だよね?
何苦楚 第16章、上巻p315か。これは全然連動してる感ないね。
М   でもさ、読んでたら「あ、これがあの血の原因やったんや!」って思わへん
猫先生 全然思わなかった。だって必然性も何もないじゃん。
М   それは春樹ってそういうやつやから。…ちょっと待って、第21章の最初に新聞記事があって、そこには田村浩一氏の警察が発表した死亡推定時刻が「28日の夕刻」(上p413)ってあるから、父が死んだのと血が付いたのはほぼ同時と考えられる。あとジョニー・ウォーカーが死んだのはいつかって言うと…。
何苦楚 田村浩一が?
М   そう、「ジョニー・ウォーカーが田村浩一だ」って読み取らせようってのはあるけど…
何苦楚 え?これ何?あれ?(大混乱)
М   ジョニー・ウォーカーが死んだ」っていうのと「田村浩一が死んだ」っていうのが同じタイミングで読者に明らかになるっていうのは、二人は同一人物だと読み取らせようとしてるってわけですね。でもそれが本当に同一人物だっていう保証はない。カフカ君が「自分の周りには処刑機械が実在した」って言ってるのと考え合わせるとそうかなーってなるけど、でもお父さんがジョニー・ウォーカーの格好して「俺はジョニー・ウォーカーだ」とか言ってるのはリアリティーないやん?
猫先生 それはおかしいよ。だって、ナカタさんが殺したのと少年に血が付いてたのが連動してるリアリティーがないって言ったら「それはそういう小説だから」って言って、ジョニー・ウォーカーの格好して出てきたのは「リアリティーないやん!」ってツッコむのはおかしいだろ。最初からそういうものだって読むんだったらぜんぶそういうものだと思って読まなきゃしょうがないじゃん。
何苦楚 なんでそこだけいきなり別人説を唱えだしたのかよくわかんないんだけど。
М   リアリティーないのは最初からわかりきってるけど、あとはそれを受け入れるかどうかってことやと思う。俺は…
猫先生 じゃあジョニー・ウォーカーとして見えたのも受け入れなきゃ。
М   俺は…受け入れない。
何苦楚 その線引きの基準なんなんだ(笑)
М   つまり、「田村浩一=ジョニー・ウォーカー」ってのは、描かれてないやん。
猫先生 そんなこと言ったらなんにも描いてないじゃんこの小説!
М   でも描かれてないのに読者に伝わってるってことは、示されてるわけですよ!じゃあどうやって示されてるかって言ったら、それはこの「章を並べる」っていう構成によって示されてるにすぎない。ジョニー・ウォーカー殺しと田村浩一っていう名前が出てくるのをすぐ前後にすることによって。
猫先生 日付が、って言うんだったら日付を細かく読めば一致してるのがわかるかもしれないけど、章の対応関係はまるでないじゃん。
М   え、じゃあ猫先生はこの「二章構造」は失敗していると?
猫先生 失敗以前に二章構造になってないじゃん!単に交互に並んでるだけだと思ってたよ。二章構造にするなら「カフカ君の章 1234…」「ナカタさんの章 1234…」って並べないと。最初に「カラスと呼ばれた少年」って章外章があるけど、最初の数章は米軍がどうこうってのも含めて、章外章じゃん。あと一番嫌だったのは上巻のp33に「OWAN-YAMA, “Rice Bowl Hill”」って注が付いててこれ何って思った。
何苦楚 ここだけなんで注付けたんだ(笑)
猫先生 こういうのやるんだったらさ…つまり、語り手がカフカ少年とナカタさんに特化します、それはいいよ。交互に章を配します、それもいいよ。でもその場合はさー、それ以外の視点にはそれ以外の位置づけを与えなきゃダメじゃん。
М   カフカ少年は、語り手そのものやから、「僕」って言って語ってるから、それはいいです。でもナカタさんパートは三人称やから、誰かが資料を提示してる、で資料が始まる前に「当文書は…」(上p26)って説明してる人がいる、おそらくこの作品内の作者だろうと思われる人がいる。そういう構造では?
何苦楚 でも気づいて嫌だったのは、今の注の話で人称が違うっていうのが。
М   人称も違うし、視点のあり方が偶数章は超越的な感じになってる。
何苦楚 そうだね、そして書簡がくるじゃん。
猫先生 人称は混乱してるよ。書簡の中では「私」・「僕」になるんだから。「ナカタさん」って書かれてる人称の章は統一されてると言えるかもしれない。でもそれは偶数章じゃないじゃん。偶数章のうち、文書や書簡の形式を取らないものにすぎないじゃん。
М   でも手紙を提示してる誰かがいるんやからそれは第三人称では?手紙の中は一人称でも、大枠で作ってるのは三人称の全知全能の語り手やから、三人称。
猫先生 でもそれだと三人称パートをナカタさんで代表させることはできないでしょ?対立は「カフカ」対「それ以外」であって。作品として提示するときはさ、三人称は三人称に徹しないとダメじゃん。後半結局ナカタさんは「ミニ・僕」になっていくわけじゃん、半分ホシノくん、みたいな。それだったら偶数章はとにかく客観的な叙述でいろんな人の視点が出てくるとかにしないと。
М   確かに三人称だけど焦点が当たってるのはナカタさん・ホシノくんだけですね。
猫先生 両方特化した小説はすでにあるわけじゃん。挟まれるのが常に客観的なデータで…スティーブン・キングもよくやるじゃん、新聞記事がドーンみたいな。あと逆に主人公が二人で交互に出てくる小説もあるわけじゃん。これ一番中途半端だよ。
М   先例を言うとわれらがチャールズ・ディケンズも、『荒涼館』という小説で三人称・客観的記述とエスターという女の子の一人称を交互に書いて事件の全貌を示す、みたいなことはうまいことやってますね。[注: Mはディケンズ大好き]
何苦楚 まあうまくいってるかうまくいってないかっていうのはその効果の問題じゃない?結局なんでそういう構成にしたかっていう。
猫先生 そうなんだよ、結局そこに戻ってくるんだけど、奇数章と偶数章に分かれてる構造っていうのは全然効果を発揮してないと思う。
М   ってことは失敗ってことでいい?(笑)やって絶対これは意図してやってるから。これを意図せずなってましたー、っていうのは通じないと思う。
何苦楚 あえて不完全さを残してるってこともあるとは思うけど…?
猫先生 意図ったってどこまでも意図かねえ?交互に並べただけで、そんなにきっぱり分けてないんじゃないのこれはもはや?
М   いやー、これは…。例えばスタインベックの『怒りの葡萄』も奇数章・偶数章で分かれる構成やし、『怒りの葡萄』って『海辺のカフカ』と同じロードノベルなんですよ。トラック乗ったりするし。春樹は絶対そういうの意識して「俺もやったるぞ!」って思って書いてると思う。
猫先生 『怒りの葡萄』は最初完全に客観視点から始まるじゃん?
М   そうそう、道の上を這うカメの描写。
猫先生 まるで映画の遠景のように、家族がトラックに乗せてもらうところを遠くからグーッと寄っていくわけでしょ?
М   あれはどちらも三人称なんやけど、奇数章はある家族の話、偶数章は歴史記述とか社会描写みたいな、それがどんどん交替していくんですよ。『カフカ』も最初の何章かはそれっぽい。
何苦楚 第6章から現在のナカタさんが登場するんだけど、第2・4章の出来事はナカタさんに寄り添って語りようがない。
猫先生 でもその後また書簡が復活するじゃん?
何苦楚 うん。でも2章・4章であえてこういう風にした効果があると考えるならば、ナカタさんはこの時この世界にいなくて、どっかに行ってしまっていたという空白を示す効果があるんじゃないか。第6章以降われわれはナカタさんに共感を覚えながら読んでいくわけだけど、第2・4章はそれができないわけじゃん。ナカタさんの「半分の影」みたいなのを、あらかじめ読者に…。
猫先生 じゃあ第12章(担任の先生の手紙)なんかは?
何苦楚 たしかに…この章はどういう意味があるのか、でもナカタさん視点ではこのストーリーは書けないから…。
猫先生 だからもう全然いいかげんなってる、グダグダじゃん。
何苦楚 でもこれが6章じゃなくて12章にあるっていうのは、トリガーとしての「血」があると思う。ナカタさんが最初にこの世界から失われてしまったトリガーは血の付いた手ぬぐいだし。
М   女教師の生理の時の血と、カフカ少年に付いた血は、モチーフとして重なっているな。
何苦楚 もう一個、ナカタ少年が昏睡から目覚めるのも、血がきっかけになってる。「採血した血液がシーツの上に散るということがありました。[…]あえていつもと違うことといえば、それくらいです。」(上p139)って書いてるから。
猫先生 あごめん、混乱してたわ。カフカ少年が神社の境内で目覚めた時の血、俺これかと思ってた。
М   でも確かに。章として並んでる!
猫先生 だからカフカ少年がぶっ飛んでたのは、ナカタさんと同じとこにいたんだと思ってた。「すっぽりと記憶が抜け落ちているんだ」(上p179)って言ってるし、俺はそれが自然だと思う。それで、最初の方で「姉とヤる」って場面があるじゃん。
何苦楚 さくらさんね。
猫先生 その時も、手になんかどろっとしたものが付いてんだよ、カフカ少年に。でもナカタさんの方にはそれに対応するものないから、「あもうメチャクチャやな」って思った。
何苦楚・М (爆笑)
猫先生 ただイメージだけで書いてるなーと。
М   つまりは…失敗作!!
猫先生 それからさっきの話に補足するとさ、「カラスと呼ばれた少年」っていう章外章が一番最初と第46章の後にあるけど、これはカフカ少年にとっての章外章でしょ?だったら、ナカタさんにとっての章外章のこういう扱いにした方がバランスは取れるんじゃない?
何苦楚 …まあ、そこはでも好みの問題なんじゃない?どこまで作品の統一感を重視するかっていう。
猫先生 確かに好みの問題だ(笑) 俺はさ、叙述トリックが好きなんだよ。あれは誰がどういう形式で語っているかっていうのをものすごく細かく決めて書くわけじゃない。そうするとこういう鈍感な書き方をされるとたまらないよー。
何苦楚 鈍感、か(笑)
М   この鈍感野郎が…!ってなる、と。(笑)
猫先生 なんとなく混然一体とするっていう部分を残してるってのはそうなんだけど。
何苦楚 この人やっぱり不完全さをある種追求してる面はあるよね。
猫先生 それに酔わないと読めないのかと思うとうんざりしてくるね(笑)

M   やれやれ(言いたいだけ)
何苦楚 システムがあってそれがバグを起こしてるってのは『世界の終り~』でやってるけど…。
猫先生 さっきから話聞いてると『~ハードボイルド・ワンダーランド』の方が構成かっちりしてそうだから、次回はそれにしよう!


   *   *   *

 


М   書き出しは、ねえ、気合い入れて書いてるとは思うけど、後から考えたら失敗してるでしょ(笑) 読者を連れて行くドライブ感としてはだいぶいいと思うで。「カラスと呼ばれた少年」で「何これ?」ってなって1章、でもそれしか考えてない。
何苦楚 出オチみたいな(笑)
猫先生 だからあれだ、2章までの原稿持ってって、残り円城塔に書いてもらえばいい。
М   円城さんめっちゃ人の作品途中から書くなー(笑) 奇数章が一人称、偶数章が三人称、で奇数章の中でも「君」って呼びかけるところがあって、二人称も使ってる。読んでいくと、「僕」と「カラス」が同一人格の中におって、カラスの目線から自分に呼びかける時に「君」って言ってんねんなー、っていうことがわかってくる。
猫先生 うん、それに異論はない。
М   で問題は、それがどこまで成功してんのかと。やってカラスとかほんま都合いいとこでしか出てけえへんやん。
猫先生 まあでも自分の中に対応者を作るっていうの、孤独の少年の心境としてはわからなくもない。そこはなんか普通に読めたね。
何苦楚 それと同時に、ほら、佐伯さんの恋人の名前なんて言ったっけ?
猫先生 え、あの口から出てきたウナギみたいなやつ?
何苦楚 それはナカタさんから出てきたウナギ!(笑)
猫先生 ちがうっけ、そこリンクしてるのかと思ってたわ。
М   なんでもリンクできちゃうから(笑)
何苦楚 そうだね、メタファーだから(笑)
猫先生 ってなっちゃうじゃん、それが嫌なのよ。まいいや、恋人名前出てきてないけど、あの学生運動で殺されちゃった人ね。
何苦楚 その恋人と、最後の方で「僕」が同期するじゃないですか。
М   その時ずっと「君」になってるね。
何苦楚 それと、カラスとの「僕-君」関係とはまた違うんですかね。
猫先生 そこの場面だけだったかどうかは忘れたけど、カラスが出てきてないのに「君」になる箇所はいくつかあった。
М   「君」っていうのも、春樹はこのすぐ後かな?『アフターダーク』(2004)で「私たち」が登場人物のエリに届いてない声で語るような変な呼びかけ文体を使う。それからよくわからんゴシック体の使用も『1Q84』で、天吾の記憶シーンで使ってる。
猫先生 自分の中のもう一人の自分が出てきて「君」で呼びかけるところはゴシック体とかだったらわかるけど、そういうんじゃないんだよ。厳密に言うと、ゴシック体になってるところはおおよそ「君」になってる。逆に、「君」になってるところが必ずゴシック体になってるかっていうと、そうじゃない。
何苦楚 下巻の「僕は彼女の肩に手をまわす。/君は彼女の肩に手をまわす。」(下p153)とかは、ゴシック体じゃなくて…
猫先生 そうそう、傍点なんだよね。…気持ちわりぃ!(一同爆笑)
    それからもうこの153ページ、半分くらい白紙のページなのにめちゃくちゃ気持ち悪いよ!
М   「おいしいパエリアを食べる」って(笑)
猫先生 「橋を爆破する」「そしてイングリッド・バーグマンと恋に落ちる」って順序逆だからね!橋爆破したの最後だろ。[注: サム・ウッド監督の映画『誰がために鐘は鳴る』(1943)]
М   いやいやいや、そこはわからんしどっちでもいいわ(笑) まあでも「僕」と「君」を行きかうっていうのは、この後日本現代小説のトレンドの一つになりますから。
猫先生 これがトレンド作ったわけ?文学終わってるな。
何苦楚 それほんとに正しいの?
М   「移人称小説」って名付けられてんねんけど、今の文芸誌見てみ、ぜんぶこんな感じやで。ぜんぶ「パエリアを食べる」とか…
何苦楚 パエリア人称と関係ないわ!
М   新書で書いて出したらいいねん。売れるで、『パエリアを食べる日本文学』
猫先生 ベスト選書『君はパエリアを食べる』
М   この次のページとかもね。「長いあいだそれは君の心にとどまっている。そしてやがて君の一部になる。」(下p155)、まあそれはいいとして。「佐伯さんがいなくなったあとには涙に濡れた枕が残されている。君はその湿り気に手をあてながら、窓の外で空がしだいに白んでいくのを眺めている。」(同)、って完全にカメラ・アイやん、いちおう呼びかけやけど。「地球がゆっくりと回転をつづけている。そしてそれとはべつに、みんな夢の中で生きている。」(同)ってこれ誰やねん語ってんの!これはさすがになるで。
    ほんで第32章見ると、ナカタさんパートで図書館について「どんな都会の通りにもそのような、遥か恩寵から遠ざけられた建物がある。チャールズ・ディケンズならそういう建物について、10ページくらい描写を続けることができただろう。」(下p157)って描写があるねん。
猫先生 M君が読み落とせないところだね。
何苦楚 おっ、ディケンズ好きとしてはどうですか?
М   いや別にええねんけど(笑)、でもこれを言ってんのはさっきまでナカタさんパートの語り手と同じなんかっていうと違うやん。もっと無色透明に語ってたやん。ナカタさんとネコの会話に茶々入れたりしてへんかったやん。
猫先生 星野も、ホシノだったり星野さんだったり星野青年だったり表記の揺れがムチャクチャだもんなー。
М   まあでもそれがやりたかったんかな?結局春樹としては、「隔てられたものが共振していく」っていうのがテーマの一つではあるやん?カフカとナカタさんっていう全然違う存在が、出会うことはないけど、結局同じ所に向かって同じ佐伯さんに会うとかさ。だから語り手も、一人称と三人称で分けてたけど同じような感じに下巻ではなってるっていうのも狙いなんかな?
何苦楚 その場合、ホシノがカタカナになったり漢字になったりっていうのは?
М   だから、ナカタさんパートが三人称じゃないってことやん。
猫先生 要するにAとBは違うことだけど、Aが揺れてBが揺れたら似たように見えるってことじゃないの?(←乱暴)星野も「ナカタさん」みたいに「ホシノさん」って書かれることもあるし、「カフカ少年」みたいに「星野青年」って書かれることもあるし。
М   表記については狙ってると思いますけどね。最後に星野がナカタさんに言う場面あるやん、「おじさんは俺という人間を変えちまったんだ」(下p395)、ありがとう、みたいな。昔の自分じゃない、っていうのが表記に出てる。
何苦楚 実際一番成長してるのがホシノくんだから。
猫先生 いや成長はないだろ?こいつ最初から達観してるよ。トラック運転手でこんなに自分のこと客観的に見られるやついないよ。
М   成長とは違うけど、ただ最初の登場の時の星野の書き方と、後の方の書き方は全然ちゃうと思いますね。計算外のことがいっぱい起きてると思う。最初はナカタさんに「日本がアメリカに占領されるわけがないじゃないか」(上p457)とか言ってて、すごいそのさ、アメリカ映画に出てくるステレオタイプな労働者階級のアホなやつみたいな感じやったのに、最後「トリュフォーが」「ハイドンが」とか言い出す(笑)
猫先生 だから村上春樹は一貫して人物を描けないってことでしょ。
何苦楚 やっぱ成長譚なんじゃないの?
М   成長譚なんやけど、成長の方向が、物知らんかった人が春樹みたいなって「やれやれ」とか「諸君、焚き火の時間だ」とか言えたりするのが「成長」っていう見方しかできないねんこの作者。やってこの小説の中で「やれやれ」っていうのホシノくんだけやで?
猫先生 そう、ホシノが多いけど、「君」で語りかけるところでも何か使ってたよ。「やれやれ」を意図的に使うであれどうであれ、達観した側の言葉だよね。物を知らなかった人がハイドンを語れるようになることが成長を示しているわけだ(笑)
    この星野青年の出方も、これは好き嫌いの問題かもしれないけど俺が嫌なのは、ナカタさんが移動を始めるわけじゃん?そこで何人か出てきた後で星野青年が出てくる。非常にノリにくいよねー。
М   いやそうかな?そこは結構いいと思うけど。それぞれのキャラクターが出てきて。
猫先生 だからそれぞれのキャラクターで乗り継いでってロードムービーみたいに見せてくれんのかと思うと、いつの間にか星野青年出ずっぱりで「あ、この人に感情移入すんのかよ」って思う。
М   ああ、それは確かにありますね。
猫先生 ほんとに気持ち悪い。相棒一人でバディ物みたいにするんだったら、そのバディの登場シーンは他の人と違うようにしてほしいわけ。いつ乗り換えんのかなって読んでたらいつの間にか「あ、残り全部星野さんなんだな」って下巻100ページくらいで気づくわけじゃん。こういうの嫌なんだよね!いつの間にかなんとなく、っていうのがね。
    最初に乗った時の感じの方が実は俺は好きだった。それぞれの地域にそれぞれの個性を持った人がいて、ちょっとずつお世話になって、最後の一人に「ナカタはお金を使っておりません」って言うの、すごい物語として楽しいと思うのよね。それが結局星野かよ、…っていうのが私の不満です。
何苦楚 なるほど。
М   ここのナカタさんが乗り継いでいくシーンっていうのは、まあもうちょっと長くていろんな人が出てきたらよかったっていうのは確かに思うけど、村上春樹文学の中でこういう人たちを描いたっていうのはこれが初めてやと思うから、僕は楽しかったけどね。こんな普通に働いてる人出てきてないでしょ?
何苦楚 確かに。みんなハワイに生きてて、サンドイッチ食べて、みたいな。
猫先生 この小説に100点満点で10点ぐらいあげるとしたらね、ナカタさんが動き始めてから星野青年と会うまでに出てきた人たち。
М   あー、わかるわそれ。
猫先生 あーなんか動き出したっていう感じ。
М   ハギタさんとか、ニヒルでいい。
猫先生 一番いいのは、お互い連携したわけじゃないのに、一番最後にナカタさんが「みなさんのお世話になり続けまして…」って言うのが映画的で面白い
М   今のところが、この小説で一番現実に近づいた場面やと思うねん。春樹のグランドデザインとしては、奇数章はリアリスティックに書いて、偶数章は「戦争中に実は…」みたいな嘘の歴史やったり、猫と会話する老人がいたり魚が降ってきたり、むっちゃファンタジー。そういうリアリズムとファンタジーの使い分けを意図してたと思うねん。けど、結局カフカ少年のパートはファンタジーになってるやん。でナカタさんパートの運転手さんが出てくるとこが一番リアリスティックなわけやん。それはほんまどうなんかなって思っちゃうんやけど。そこまで含めてデザインです、って言われたら「はあ」ってなるしかないが。
何苦楚 そもそもそのリアリズム対ファンタジーって構造自体「そう?」って思っちゃうけど。
猫先生 うん。全部ファンタジーじゃないのこれ?カフカ少年あんまリアル感ないじゃない。
М   カフカ君いちおう生活の一個一個をちゃんと描写されてるやん。
猫先生 図書館でも生身の人間一人も出てこない。大島さんと佐伯さんと…
何苦楚 フェミニストは?がんばってるフェミニストがいるじゃん。
猫先生 そう、だからフェミニストが出てくるとこだけ描写が異様に浮いちゃうの。
何苦楚 確かにねー。
猫先生 ああいう場面はいいよ、もちろん立場として賛成・反対あるのはともかく。だけどさ、それこの中に全然位置付けられてないじゃない。
何苦楚 そう、不思議だよね。だから逆にあまりに非現実的だから地に足付かそうとして入れたのか…。
猫先生 大島さんの非現実感って、そういうやつらを論破するところにはないだろう。もっと超然としててほしかったというか…。
何苦楚 これは月並みな感想なんだけど、なんでこういう年齢設定にしたのかわからない。「僕」の15歳はいいんだけど、それ以上に大島さんが21歳っていうのが信じられない。
М   21歳?ほんまに?信じられへん、30ぐらいやろ。さくらさんより年下ってこと?あとこれさくらも、全員そうなんやけど都合良すぎやろ!出会い方も。
何苦楚 そうだね。さくらさんは都合良すぎる。これは認める。失敗してると思う。

М   なんでお前が認めるねん、春樹か(笑)
猫先生 これを出すんだったら、さっきのナカタさんじゃないけど、もっと出会いに特化したロードムービーみたいにしてほしかった。
М   ボーイ・ミーツ・ガール的なね。
何苦楚 大島さん21歳、どこに書いてあったか出てこないんだけど…。
猫先生 それはあれじゃない?その章だけ時空が歪んでいて、実際は38歳とか。
М   でもそうか、カフカ少年のとこリアリズムパートと読んでたん俺だけか…。描写の鮮明さというか、細密描写をするやん。リュックに寝袋を入れました、ポンチョを入れました、とか。ナカタさんはそういうのないやん、猫としゃべってますって状況と会話の実況だけやん。その描写の質というか、「解像度」が違うっていう気がしてたから。でも最後の方なるとなー、それもなくなっていくねんなー。「世界」があって、別の視点で別の捉え方で並べて書きました、やったら俺はいいとおもうねんけど。
猫先生 ほんとにこれ、映画化するんだったらウナギが好きな知的障害のおじいさんがロードムービーするとこだけにしてほしい。主演神戸浩で。


   *   *   *

М   ホシノくんが「成長」するっていうのは、わりと見やすい図式やと思う。その成長が俺らからしたら「はあ?」って思うものでも。じゃあ一方でカフカ少年はどうなのか。『海辺のカフカ』ってタイトルにもなってる少年、普通に考えたらこの子が成長する話やねんけど…。
    そもそもこの小説、カフカの『アメリカ』―今は『失踪者』ってタイトルになってるけど―をタイトルからも意識してて、少年が家出するってのは最初の段階で決まってたと思う。それと、神話の枠組みを採用する、まあオイディプス神話やけど、も決めて書き出したのは間違いない。あとはその目論見が成功しているのかってことですよ。
何苦楚 目つぶさないし(笑)
М   目は別につぶさんでもまあええけど(笑)
猫先生 成功も何も、設定だけ聞かされてああそうなんですねって感じだもんねー。最初に「仮説として維持できる」ってセリフが出てきた時点で「もうオチないな」ってなるじゃん。それで押し切るんだなって。
М   その段階ですでに(笑) 佐伯さんが母親ってのも書かれてるわけじゃないしね。
猫先生 だからそういう裏付けはまったく与えてくれないんだなってわかる。
М   ミステリーやったら「この人が母親か」とか「この人じゃなくてあの人だったのか」とかなるけど、そういうのはない。
何苦楚 ミステリーとして読む必要はないんじゃないかな。
М   でも導入部分は完全ミステリーやん。まあ春樹の全作品そうやけど。枠組みとして使うけど…
何苦楚 合ってるかどうかは読み手にゆだねるってことね。
猫先生 イメージで押し切るんだったら大島さんがお姉ちゃんでいいじゃん。実は女だから…って。俺それありかなって思ったら全然そっちの方向に行かないんだもん。
М   でもその方向も読ませようと誘導してると思うけどね。
猫先生 そういう意外な犯人みたいなんもないと何を楽しく読めばいいのか。
何苦楚 だから成長譚なんだって。
М   おっ!じゃあそれを言ってください。どの辺が成長したのか。
何苦楚 カフカ少年が森に行くけど森にとどまんないあたりが成長譚なんだよ。つまり森に行って森にとどまる人っていっぱい出てくるわけじゃん。
М   えっ、ニートのこと?
何苦楚 兵隊が二人いるじゃないですか。でナカタさんも半分どっか行っちゃったじゃないですか。で佐伯さんも半分どっか行く。で僕も森に行って、帰って来る必要ないわけです。予言はこの時点で成就してるから。でもそこからまた戻って来る決断を下したっていうのは、かなりステップアップしてますねって書き方を明確にしてる。
猫先生 佐伯さんも半分行ったの?じゃあなんでバカにならないの?
何苦楚 バカにはなってないけど、ただ感情半分くらい失ってるし…
猫先生 あ、それもなのか。全部あれなんだね、ファジイなイメージで…(笑)
М   佐伯さんってほんとにリアリティーないよな。大島さん以上にないで。
何苦楚 そうだね。
猫先生 そのリアリティーのなさが突き抜けてくれればいいんだけどね。もっと図書館運営してる人がリアルな人たちで一人だけ超然とした人がいる、だったら「その人に起こったことは何なんだろう?」って思って読むわけじゃん。
М   図書館全員リアリティーなくてフワフワしてる(笑)
何苦楚 確かにストーンがない、リアリティーの基準となる点がないんだよね。
猫先生 そうそうそう、「石が重い」って書いてあるだけで重い石がどこにもないんだよ!
М   だからやっぱ、ナカタさんが出会う人たちが基準やろ。俺はほんとあの何ページかはすばらしいと思うけどね。いやすばらしいって言うか、普通の作家としては普通やで!(笑) これできなかったら作家なられへんからな。でも、え、春樹首座ってないけどつかまり立ちはできるんやん!って思った。(もはや悪口)


   *   *   *


М   根本的な問題は、この「僕」に感情移入できないでしょ。
何苦楚 そう、タフだからね。
М   いやタフやからじゃなくて!
猫先生 すごい大ざっぱな話をすると、下巻ぐらいになって、社会での閉塞感をちょっとでも感じてる人だったらナカタさんに感情移入して読めばいいんだなってなっちゃう。
М   そう、ナカタさんは、メタ的にはそう設計されてると思うんやけど、「ナカタはからっぽの器です」みたいなことを言ってて、てことは読者も入れるってことやん。でも、「僕」にはたぶんどの読者も入れないと思う。
何苦楚 そうかな?「僕」って孤独でアイデンティティーが不確かな人だと思うから、「僕」に入るって言うか、シンパシーを感じながら併走していくことはできると思う。
М   まあそうやって読めたらこの小説だいぶ面白いと思うけど、俺は入っていけなかった。
猫先生 だから読者がカフカ少年に入っていけないかわりにカフカ少年はお姉さんの中に入っていったんでしょ?
何苦楚 うまいこと言ってるのかよくわからないけど(笑)
М   「入っていったんでしょ?」ちゃうわ、おもっきり下ネタやん!(笑) カフカ少年が、それこそカフカの「流刑地にて」に出てくる処刑機械の描写について大島さんと話をするところがあって、「その複雑で目的のしれない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ。それは比喩とか寓話とかじゃない。でもたぶんそれは大島さんだけではなく、誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう。」(上p119)って思うんやけど、ってことは俺らにも絶対わからんってことやん。読者の感情移入はここで拒まれてるねん。
猫先生 これは結局…どういう「意味」なの?
М   わからん。もうまったくわからん。これはこの作品の中でも一番わからんとことして放置されてて、もちろん種明かしもない。この作品メタファーって言葉めっちゃ出てきて、「リアリティーではないけどメタファーとしてそうなってる」って現象がいっぱい起きるけど、この処刑機械だけは「比喩とか寓話とかじゃない」って書かれてるから「リアリティーとしてこうです」やねんよな。この一節は小説全体にも逆らうくらいの強烈さで、ゼロ点になってるから感情移入誰もできない。
何苦楚 「処刑機械」が何をさしてるかはわかんないけど、僕の持ってる精神的な閉塞感とか圧迫みたいなものに対する…。
М   でもそれは「比喩」やろ?
何苦楚 そうか、今の言い方だとまさに大島さん的な読み方になっちゃうのか。
М   この小説に出てくる他の意味不明な出来事、魚が降って来るとかも理解はできないけど、読者が何らかの解釈をする可能性には開かれてる。でもここは何の解釈も許しませんって言ってる。それってけっこう強烈やんね。
猫先生 僕は理解不能な出来事が多かったからそこだけだとは思わなかったけど(笑) じゃあさ、何苦楚君が苦しい弁護みたいなるのもアンフェアだから聞くよ…どこが魅力?
何苦楚 うーん、やっぱ最後はうまく落ちてる気がするけどね。
М   (失笑)え、どこが?!?!?
猫先生 「たぶんそれはM君や猫先生だけではなく、誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう。」
М   感情移入拒まれたわ今ので(笑)
何苦楚 第49章じゃん、やっぱり?
М   え、最後の「世界の一部になっている。」ってやつ?
猫先生 それさ、どんな文章1000ページ読まされても最後これ書いてあったらいいってこと?エヴァンゲリオン最短版みたい、オープニング終わったら「おめでとう」みたいな。
何苦楚 それは言いすぎだろ(笑) これカラスって最後までいるんだっけ?
М   いるよ。むしろ最後はカラス視点から「君」で語ってる。「絵を眺めるんだ」「風の音を聞くんだ」とか言ってる。この作者『風の歌を聴け』にどんだけ誇り持ってるねん!
何苦楚 東京から四国に行って東京に帰る、っていう話なのがいい。
М   でもその「行ってきて帰る」って構造自体はありふれた話をあえてやってるわけやん。『スタンド・バイ・ミー』もそう。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もそう。
猫先生 “Kafka. I’m Kafka. It’s OK.”
М   でカフカがナカタさんに輸血して抱き合う、みたいな。(※『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の話が続いております)
何苦楚 やっぱり森なんじゃない?森の描写なんじゃない、キーは。
М   いや森の描写はヘタすぎるやろ!(笑) それこそメタファーとしての森やん。
何苦楚 ごめん森じゃない、森の先の世界かな?時間がなく空間もなく、ただ佐伯さんと、っていう。
猫先生 え、兵隊に導かれて行ったとこ?
М   え、精神と時の部屋みたいなとこ?
猫先生 でも森の家はさー、森の描写じゃないじゃん。
何苦楚 そこが一番おもしろかった。なんかよくわからない空間で…。
猫先生 それはさ、2001年宇宙の旅』の最後に出てきたホテルの部屋を見て「宇宙ええなあ」って言ってるのとおんなじでしょ?それは宇宙じゃないじゃん。
М   たしかに!(笑)すっきりしたわ。いいたとえ。
猫先生 それは宇宙を超えたところにあるものなのかもしれないけど、宇宙じゃないよ。
何苦楚 でもさ、この世界をどう名指せばいいのかわからなくて、おもしろいと思うけど。
猫先生 じゃあやっぱダイレクトに『2001年』のラスト見て「宇宙やー!」ということね。
М   「新しい世界の一部になっている。おめでとう。」
猫先生 世界の一部じゃなくて、「スターチャイルドが待っている。」だよ
М   いやもうそれ完全に2001年宇宙の旅!(笑)ってことで長々お付き合いありがとうございました!次回村上春樹読書会、第2回は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でお会いしましょう!