良書読書会のしおり

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名作日本文学読みなおし③ 太宰治「走れメロス」

 「走れメロス」は太宰治の代表作として多くの教科書に収録され少年少女の心に友情の美しさを焼き付ける一方で、太宰作品全般から見ると「太宰らしさが皆無」「なんかいつものウジウジした太宰と違う」「明るすぎる」と継子扱いされてきた、奇妙な矛盾をはらんだ作品です。代表作なのに作家の代名詞ではないという、この分裂は何によって生まれているのでしょうか?そしてなぜ分裂がありながらこれほどの「名作」となっているのでしょう?

 この疑問に答えるべく、文体の揺れを見ていくことにしましょう。まず冒頭は、叙述の「~た。」体と断定の「~である。」体などがリズム良く交互に入った、言文一致体三人称の完成形と呼びたい雄渾な筆致で描かれています。

 

 メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

 

 「走れメロス」と言われてほとんどの読者が思い出すのはこの文体でしょう。力強さは太宰の資質の一つではありますが、末尾に記されているように「古伝説」と「シルレルの詩」=シラーの物語詩『人質』を下敷きにしたことにより、叙事詩性が一層顕著に出てきています。なにせ「羊と遊んで暮らして来た」(!)ですからね、まさに牧歌的。特に小栗孝則訳『新編シラー抄』の訳文を比べて読むと、「愛と誠」など言葉遣いを含めて作家が深い影響を受けていることがわかります(以上のことは、国語の教科書の指導書にも記されているある程度有名な事実のようです)。

 しかし、メロスが山賊たちを倒した後、疲れ切って走るのをあきらめようとする場面の長い独白はどうでしょうか。

 

 けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もうどうでもいい。これが、私の定った運命なのかもしれない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。

 

 セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間社会の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。

 

 このたたみかける短文と、読点の独特のリズム!「欺いた」と自分で言ってるのにすぐ「欺かなかった」ことを異様に強調し、自分の正当性を述べ立てる独白体は、おそらくこの作家にしかこうは書けない、面目躍如となっています。参考までに、太宰的作品の一つ「道化の華」の一節と比べてみましょう。

 

 生きながらえている愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見当はずれの註釈ばかりつけている。そして、まずまず註釈だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつっぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やっぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さの中でこそ、僕は暫時の憩いをしている。ああ、もうどうでもよい。ほって置いて呉れ。

 

 冒頭に提出した「矛盾」には、とりあえずここで解決を出すことができます。「走れメロス」を書くにあたって作者は、シラー=小栗の雄渾な文体を採用しつつも、最も重要なメロスの独白を「ザ・太宰治」の文体で書き分け、その迷いを牧歌の世界から引きずりおろして読者の身近に感じさせているのです。

 メロスが繰り返し「君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!」と仮想のセリヌンティウスに語り責任を逃れようとするさまは、ドイツの社会学マックス・ウェーバーによる「心情倫理」の説明を連想させます。ウェーバー第一次世界大戦でドイツが敗北した後の痛切な講演『職業としての政治』の中で、宗教者が代表する「心情倫理」から「結果倫理」を区別し、政治家は「結果倫理」のみを負う仕事だ、としています。現代日本の言葉で言えば、結果責任というやつです。自分が約束を守れていないのに、どれだけ頑張ったかだけを主張するメロスには、まだ結果責任という考えはないようです。本文三文目に「メロスには、政治がわからぬ。」と断定されている通りです。メロスは激怒しますが、「人の心は、あてにならない」と考えメロスが本当に来るとは信じていない王ディオニスの方が、「君主は愛されるより怖れられよ」と教えるマキャヴェリ的な意味で(あるいは、ウェーバーが理想としたビスマルクのように)政治の本道を行っているのです。

 しかし誰もが知るように、メロスは間に合います。読者を感動させるのは、メロスがわれわれ誰もが陥りがちな「心情倫理」の世界から脱し、結果を出そうと満身創痍でもがくその苦闘でしょう。メロスは、いったいどこで変化したのでしょうか?

 「走れメロス」を出来事だけ追うと、メロスの転機は湧き出る水を飲んだことにしかない。「水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。」…さっきまでのあれほど説得力ある独白を「あれは夢だ」と一瞬で忘れさせるような、この水は何なのか?聖水?水素水?メルカリ?しかし違う視点で読むならば、メロスの転機はその前に「流れを制圧した」という部分にあるのではないでしょうか。

 フリーメーソンの「博愛」の理念のために「歓喜の歌」を書き(ベートーヴェンが曲を付けた大みそかに歌うアレです)、自身もフリーメーソンに加入していたと一説で言われるシラーが原典だけに、メロスは途中で「火の試練」「水の試練」に襲われます。「火の試練」とは沈む太陽、「水の試練」とは雨で橋が流され濁流となった川です(秘密結社フリーメーソンと「水の試練」「火の試練」について知りたければ、モーツァルトの『魔笛』と007の異色作にして最高傑作『スカイフォール』、それぞれの主人公を襲う試練をご覧ください。また「メーソン」は「石工職人」の意味なので、セリヌンティウスの職業とも関連します)。「火の試練」も「水の試練」も、「不可抗力と思える流れに耐えて水平的に突っ切る」という部分で共通しています。

 

 メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと搔きわけ搔きわけ、[…]押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。

 

 まだ陽は沈まぬ。[…]陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。

 

 メロスは「流れを克服できる人間」だからこそ、「水の流れる音」を聞いて清水にたどりつくことができ、自らの悪い思考の流れも「悪い夢だ」と断ち切ることができたのです。メロスは途中セリヌンティウスの弟子フイロストラトスに「恐ろしく大きいものの為に走っている」と言うのですが、これは「流れを突っ切る」という登場人物として作家から与えられた自分の宿命のことではないでしょうか。

 刑場に入ってきたメロスは、「先刻、濁流を泳いだように群衆を搔きわけ、搔きわけ」、名乗りを上げます。ここで作品の前面に出てくるのが、メロスの直進する運動をかたどるような漢数字「一」です。

 

 かすれた声で精一ぱいに叫びながら、[…]「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」

 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。

 

 「一」のイメージで描かれるメロスの疾走とセリヌンティウスの殴打という二つの水平的な運動によって、メロスは結果責任を全うします。それがページをめくりながら横へ横へと活字の流れを突っ切って読んでいく読者の運動と呼応することで、読者は先を急ぐメロスの心情に没入することができます。この隠れたメカニズムが、「走れメロス」が「名作」と呼ばれる理由だと、筆者は考えます。

 冒頭で「走れメロス」について「太宰らしさがない」という意見を紹介しました。しかしこうして読んでみると、太宰とは自分は流れに流され巻き込まれていながらも流れを突っ切る強さに憧れていた作家ではなかったか。デビュー作『晩年』所収の「魚服記」で滝壺に飛び込む少女を描いた時から「ただ、いっさいは過ぎていきます」で知られる(本当の)晩年の『人間失格』まで、あるいは玉川上水に飛び込んだ最期まで、太宰の中にはメロスがいたのではないか。そう考えると、メロスが自分の裸体を意識して「勇者は、ひどく赤面した。」で終わるラストは、理想だったメロスが太宰的自意識を獲得した(してしまった)瞬間と読めるのです。この作家の苦闘は、そこから始まったのです。とすれば、「走れメロス」とはなんと太宰治らしい作品でしょうか。(M/T)