良書読書会のしおり

なんばまちライブラリーが惜しまれて閉館したため、新大阪で開催しています。初参加の方大歓迎。現在は季節ごとに開催。

「終わった感」で読み解く2019年映画 『スター・ウォーズ』の夜明けを待ちながら

「旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど」― ポルノグラフィティ「アゲハ蝶」

「それは始まりの終わり、終わりの始まりだったんだ」― 「ザ・バンド」ロビー・ロバートソン、映画『ラスト・ワルツ』での発言

 

 過ぎ去った2019年は、ハリウッド映画が「シリーズの終わり」に直面した時代だった。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)、トイ・ストーリー、そしてスター・ウォーズ…。これらが共通して示したのは、かつて『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3』(1990)や『スパイダーマン3』(2007)が行ったような、「シリーズを真の意味で終わらせる」作品が、いよいよ成立しづらい時代になっているということだ(知られる通り、スパイダーマンは俳優を変えて二度もリブートされるのですが)。上に挙げたMCUトイ・ストーリースター・ウォーズが、いずれもディズニー傘下のシリーズであることは、何かを象徴している。MCUは『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』によって「フェイズ3」を終え『ブラック・ウィドウ』(2020年5月公開)で「フェイズ4」の幕を開ける準備を整えたばかりだ。『トイ・ストーリー4』には新しい仲間と冒険する続編が作られるだろう。「すべて、終わらせる。」とポスターに謳っているように、『スター・ウォーズ エピソードⅨ/スカイウォーカーの夜明け』(以下『夜明け』)で9部作は完結した。しかし、生みの親ジョージ・ルーカスが権利をディズニーに売却した時に「今後100年スター・ウォーズは作られ続ける」と皮肉交じりに予言した通り、また新たな三部作が公開される日も近いらしい。全ての出資元であるディズニーにとって、これらのシリーズは「映画」である以上に莫大な出資金を回収し利益を得るための「コンテンツ」なのであり、真に「終わって」はいけない、今度こそ「終わったのだ」と思わせながら半永久的に「続け」なければいけない「商品」となっている。この「本当は終わってはいけない終わり」を筆者は「終わった感」と名付け、2019年のシリーズ映画がいかに「終わった感」を出そうとしていたか、そしてそれに成功していたのか?を考えていきたい。

 

【以下、MCUトイ・ストーリースター・ウォーズの作品詳細に踏み込みます。未見の方は引き返してください。】

 

 『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、「終わった感」を見事に演出した傑作である。前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のラストで、サノスの「人口半減計画」と引き換えに消滅したインフィニティ・ストーンを、過去に遡って集めに行くという斬新な脚本。過去作品を再現するために再び集められた超豪華キャスト。これらの趣向により、『エンドゲーム』は同窓会の楽しさと過去作プレイバックの充実感に溢れていた。

 しかも、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』から顕著になってきたキャップの「キャプテン・アメリカとしてでなく一人の人間として行動する」というテーマも見事に回収し、アイアンマンファンもキャップファンも納得する結末を付けたのは、監督・脚本を担当したルッソ兄弟初め制作チームの勝利という他ない。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でルッソ兄弟の才能に感動して作品を追ってきた筆者にとっても、『エンドゲーム』は感動的な映画となった。また、「タイムトラベル」を可能にする偶然が「ネズミ」の振る舞いに委ねられているのも、ディズニーが作品を作らせている現状への気の利いた風刺になっている。

 

 『トイ・ストーリー4』は、「真に終わらせた」完璧な作品である『トイ・ストーリー3』に挑戦してさらに「終わった感」を出すという、離れ業に成功した映画である。『トイ・ストーリー3』のラストで、アンディの元を離れ、ボニーの物になったウッディ。しかし、おもちゃでボニーと遊ぶアンディの姿に感動するあまり、観客の誰も「そもそもなぜウッディは、というかおもちゃは、人間の物にならなくてはいけないのか?」という問いを浮かべられなかった。

 『トイ・ストーリー4』は、この問いを改めて提起するとともに、ゴミから生まれた「フォーキー」というキャラクターとの対比で「そもそもおもちゃとゴミは何が違うのか?」という根源的な問いも投げかけ、ラストではウッディをシリーズの呪縛から解放し自由にした(これは『エンドゲーム』でのキャップの扱いにも非常に近い)。

 やがて作られるだろう『トイ・ストーリー5』はまだウッディの話なのか?それともバズたちが代わって主人公を務めるのか?まだわからないが、それは今までの「トイ・ストーリー」とは全く異なる、興味深い映画になるのだろう。今から見るのが楽しみだ。

 

 さて、スター・ウォーズである。2019年は本来なら、スター・ウォーズサーガが完璧に幕を降ろした年としてファンの心に刻まれるはずだった。しかし、そうはならなかった。個人的な感想を言うと、『夜明け』を見終えた筆者に訪れたのは決して夜明けではなく、どこかで一度聞いた手柄話ばかりの三次会に付き合わされたあげく調べたら終電がなかった時の徒労感である。「終わった感」のない終わり。新たな「新たなる希望」になるはずだったはずの新・新三部作(EP7~9)が、なぜこんなことになってしまったのか?


 『夜明け』には、確かに最初から不利な要素があった。1977年から始まるシリーズの、42年という伝統の重み。創造主であるルーカスが身売りしてディズニーが作っていることの正統性の不足。事前に発表された人事(「『ジュラシック・ワールド』のコリン・トレヴォロワが監督する」)からの、監督降板劇。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』双方の、「気になったアナタ、この真相は完結編を乞うご期待!」とテロップが出そうな、結末の先送り感。…しかし、それらの逆境を跳ね返してこそのディズニーではないのか?職人監督J・J・エイブラムスではなかったのか?


 冒頭のオープニングロール、「The dead speaks!」の一文にこの映画のデザインは明らかだ。『最後のジェダイ』でスノークという敵役を殺してしまった穴埋めに、旧三部作から皇帝パルパティーンという絶対悪をもう一度担ぎ出す。EP6であれほど見事にアナキンに溶鉱炉に落とされた皇帝の、ゾンビなのかクローンなのかもわからない形で。しかし甦った「死者」にしゃべらせることは、そのまま旧三部作の、すなわちルーカスの重力場に牽引されることを意味する。カイロ・レンにマスクを壊させ、ルークにライトセーバーを捨てさせ、ヨーダジェダイの木を燃やさせることで今までの伝統との決別を告げた『最後のジェダイ』の路線は、ここですでに放棄されたのだ。


 以後『夜明け』は、かたくなに『最後のジェダイ』との連続性を否定し続ける。カイロ・レンは、自分で壊したマスクの修理を依頼する。霊体になったルークは、レイが捨てようとするライトセーバーを受け止め、隠していたXウィング戦闘機を水の底から引き上げてみせる。ローズと恋に落ちたはずのフィンはレイが気になっており、ローズは全ての任務で待機を命じられる。やましさを持った嘘つきが、相手も覚えていない細かい嘘を反復して自分の記憶までも捏造しようというように、フロイトが「反復強迫」という言葉で表現したように、繰り返し。

 カイロ・レンは、修理したマスクを被っている時に「継ぎ目が気になるか?」とハックス将軍に問いかける。しかし、修理の出来栄えがまずく継ぎ目が粗いのを気にしているのは、登場人物ではなくJ・Jを初めとする制作陣の方なのだ。彼らは、彼らが水の底に沈んだと見なした『最後のジェダイ』を、今回のルークのように皮肉な表情でもう一度浮かび上がらせたつもりだったのである。歴史修正主義というダークサイドに転落する危険に身をさらしてまでも。


 それでは、『最後のジェダイ』を否認した『夜明け』は、恭順を誓う旧三部作に匹敵する出来栄えなのだろうか?残念ながら、答えはノーである。ルーカスが黒澤明七人の侍』から拝借した、フレームがフェードしていく画面切り替え(紙芝居形式と呼ぶべき?)は、採用されていない。そしてそれとともに、旧三部作を特徴付けた危機また危機の活劇のテンポも完全に失っている。皇帝の居場所への手がかり1をつかむための手がかり2、それを探すための試行錯誤に、心浮き立つ人はいないだろう。だって、そもそも最初のシークエンスでカイロ・レンが、皇帝に会ってしまっているのだから…。


 何が残ったか?旧三部作の活劇性もない、新三部作のCGへの偏執狂的なこだわりもない、『フォースの覚醒』の実物へのこだわりもない、『最後のジェダイ』の新鮮なフラッシュバックやスローモーションの導入もない。残ったのはただ緩慢で必要手順を消化するだけの展開と、近年のファンタジー映画の画調で皇帝の「電気ビリビリ」をやりました、というだけの面白味のない画面だ。

 『夜明け』の途中で短剣に刻まれたシス語を解読するために、C-3POのメモリが消去される、というくだりがあるが、「記憶喪失」こそこの映画を象徴するモチーフだ。「チューバッカが死んだ!→いや、死んでなかった」「カイロ・レンが死んだ!→いや、死んでなかった」「C-3POの記憶が消えてしまった!→いや、R2-D2のバックアップで復元できた」。万事この調子。もしかするとJ・Jは、観客が過去作や『夜明け』のそれまでのストーリーの記憶を失った状態で見るよう暗に示唆しているのかもしれない。いや、さすがにそんなことはないのかな…。


 どれだけ「終わった感」を出せなくても、2時間半過ぎるとハリウッド映画は物理的に終わってしまう。「すべて、終わらせる。」ためには、結局アナキンでも倒せていなかった(とこの映画で判明した)皇帝を、みんなで何とかして倒さないといけない。そこで、『最後のジェダイ』で両親が「何者でもない」と明言されたレイの出自を変更し、なんとシスの伝統を受け継ぐパルパティーン家の末裔だったことにする。『夜明け』以前の8本の映画で、皇帝に息子か娘がいると言及があったことは一度もないにもかかわらず。

 それは百歩譲るとして、真の問題は、ヒロインが「何者でもない」がゆえに観客皆が参加できるかもしれなかった(『最後のジェダイ』が可能性を広げた)スター・ウォーズサーガを、結局スカイウォーカー家とパルパティーン家のお家騒動に矮小化してしまったことである。結局「スター・ウォーズ」は最初から最後まで選ばれし者たちだけの話だったわけで、脱走兵フィンも『最後のジェダイ』ラストで箒を構えていた少年も関係なかったのだ。


 言うまでもなく、皇帝は強い。敵を倒す役割を与えられたのがレイである。しかし、ジェダイの修行も正式に終えていないレイに、衰えているとはいえ皇帝が倒せるはずがない。また、うっかり倒せてしまったらそれはそれで話が盛り上がらない。映画的にそこそこ盛り上げながら、かつ「終わった感」を出すにはどうすればいい?ここでもJ・Jが持ち出すのが過去の伝統である。倒れたレイの耳に、オビ・ワン、ヨーダ初め過去作のあらゆるジェダイ・マスターの声が響く。そして立ち上がったレイは、一本のライトセイバー(ルークから受け取ったもの)だけでなく、二本目のライトセイバー(レイアが持っていたもの)をXの形に構えて、皇帝のビリビリを跳ね返す。わざわざ呼び戻した「死者」を、過去の伝統という重みで倒すことによってしか、『夜明け』は終わりを迎えることができなかった。


 それが幸福な終わりだったとは、筆者には思えない。敗因は、今まで以上に「スター・ウォーズ」が「商品」であるために(そして『最後のジェダイ』が買った不評のために)、観客の目を意識しすぎたことだろう。皇帝の復活を見届ける黒い観衆たちに実在感が全くないのは、あれが「皇帝に代表される過去の伝統を信奉する観客」の具象化だからで、実はそんな観客はあまりいないのだ。ほとんどの観客は過去の復古でなく、新しい何かの始まりを見たかったはずなのに…。だがそんな仮想の観客に忖度して一挙手一投足が乱れた作品を、ファンは「遠い昔、遥か彼方の銀河系」でのお伽話として受け取れるだろうか。誰がどう見ても21世紀の資本主義社会での話だろう。

 

 
 一意見です。筆者が見たいのは、「終わった感」を嘘でも出すために観客の目を気にしながら制作者たちが会議室で四苦八苦して作ったような「コンテンツ」ではありません。見たいのは「映画」です。資本の自己運動の中に映画が巻き込まれてしまっている近年、「終わった感」というカタルシスの感覚を観客の胸に呼び起こしながら続編も作れる作品を撮るというミッションは困難を極めてきています。そしてディズニーは、制作過程に関して間違いなく「帝国」として振る舞っています。にもかかわらず筆者は、デス・スターに風穴を開けてくれる「新たなる希望」の登場をスクリーンを見上げて待ちながら、今年も映画館に通おうと思います。May the force be with us! 今年もよろしくお願いします。

 

良書読書会 @gbpresoc

第14回良書読書会記録 村上春樹『アフターダーク』(10/5)

良書読書会#14


課題書:『アフターダーク』(講談社
開催:2019. 10.5 @芦屋、村上春樹ゆかりの地
   打出図書館会議室→打出公園→ジャズレストラン「レフトアローン
発表担当:江戸

《レジュメはこちら 、パワーポイントはこちら
 

村上春樹の『アフターダーク』を課題書に
読書会を行いました!


 
 象徴クイズ
 ①『アフターダーク』と自作『1Q84』の共通点は何でしょう?
②各章の最初にその時刻のアナログ時計が掲げられていることには、どんな意味がありますか?
③テレビ画面の中の「顔のない男」は、どうして途中でいなくなるのですか?
④高橋が真理に言う「ゆっくり歩け、たっぷり水を飲め」とは、もともと誰の言葉ですか?
 
次は
大阪に戻って開催します。
 
to be continued…

キリキリとゾワゾワ—吉行淳之介『闇のなかの祝祭』(1961)

 私が生まれて初めて吉行淳之介に触れたのは『樹に千びきの毛蟲』だった。といっても、この題名がつけられた彼のエッセイ集の中身は未だに読んだことはない。幼少の頃、実家の本棚に並んでいた数ある背表紙の中で、この題名がいつも目に留まり続けたのを覚えているのだ。その題名から想起される、見えないものにゾワゾワする感覚が、子供心に新鮮で印象的だったのだろう。
 
 『闇のなかの祝祭』は、昭和36年に書かれた表題作と、昭和30年から35年の間に書かれた前駆的な短編『青い花』『海沿いの土地で』『風景の中の関係』をまとめた作品集である。後者の3編は、初期短編集『娼婦の部屋・不意の出来事』にも収録されている。主人公・沼田沼一郎と愛人・都奈々子と妻・草子との関係を描いた私小説的な表題作は、発表当時モデル論議を呼び起こし、スキャンダラスな扱いを受けたと言われている。
 
 確かにこの4編には、女の睡眠薬オーバードーズによる自殺未遂や、台所用品に対する感情の動き、愛人の女性が男の家を隠れて覗きに来るなど、同じようなエピソードが繰り返し描かれている。もしかすると、吉行淳之介の実体験に基づいたものなのかもしれない。
 
 まず、この表題作、現代的観点から言えば政治的には全く正しくない。妻に平気で三度も四度も堕胎させているわ、妻子がいる中で女優と浮気だか本気だか判然としない付き合いを続けるわ。これが国や時代がまるっきり違うならば、「ああ、そういう時代もあったろうさ」と思えるかもしれない。しかし、舞台が昭和30年代の日本という、なまじっか現代と連続した線上にあるから、より生々しい。今なら、この小説を読んでいる、というだけで糾弾されかねない気すらしてくる。
 
 にも関わらず、この小説には抗いがたい魅力があるのだ。
 
 私は吉行淳之介の作品の魅力のひとつは、緊張感の描写だと思っている。登場人物たちの人間関係は安らぐ瞬間をほとんどみせず、ある時は激昂した感情のぶつかりで、ある時は静寂の中で、キリキリという音がするかのような緊張感が持続していく。決して心地いい訳ではないが、その緊張感のふと味わいたくなるのだ。 
 
 また『闇のなかの祝祭』では、音が重要なモチーフになっている。映画館でのセリフ、街角を流れるレコードの歌声、電話のベルの音、アパートの呼び鈴。これらもまた物語に緊張感を帯びさせてゆく。主人公の沼田にとって、外部で鳴り響く音は、警報であり、預言でもあるのだろう。
 
 そしてラストは、『暗室』や『星と月は天の穴』など吉行淳之介の他作品でも見られるような、わずかばかり現実からずれたような鮮烈かつ陰惨な光景で幕を閉じる。光や明るい色と、そこに吸い込まれるように窓を開ける漆黒の闇の一点、という対比の鮮やかさ。吉行淳之介の頭の中に、先にそのビジュアルが天啓のように浮かび、それを描きたくてそれに符合しうる物語を後から考えたのではないか、と思えてしまう。この詩的なラストシーンもまた吉行作品の魅力だと思う。
 
 この表題作では、沼田のアパートに贈り物を送りつけて来たのが誰なのか、など、謎は謎のまま残る。何も解決はしない。だからこそ、世界の何処かで今もまだ、沼田が、あるいは誰かが、もしかすると読者である私が、キリキリとゾワゾワの狭間で怯え続けているのではないかと、夢想ぜずにはいられないのだ。

第13回良書読書会記録 綿矢りさ『勝手にふるえてろ』(9/14)

良書読書会#13


課題書:『勝手にふるえてろ』(文藝春秋
発表担当:_

《レジュメはこちら 
 

綿矢りさの『勝手にふるえてろ』を課題書に
読書会を行いました!


象徴クイズ
①作中に「~、勝手にふるえてろ」と、タイトルが出てくる箇所がありますが、
 この一文に心が震えるのはなぜでしょう?
②『勝手にふるえてろ』の中で、ヨシカとニ(霧島)が共有しているある「動き」とは
 何でしょう?
 そしてそれは、学生時代のヨシカの描写と読み比べる時、どんな意味を持つでしょう?
③②とは別に、ヨシカが気づかずに学生時代の「動き」を自分ではそうと気づかずに(?)
 反復しているものがありますが、それは何でしょう?
 *”天然王子の絵を描く”などは絶対自覚的なのでナシ!
 
 
次は
村上春樹ノーベル賞とれるのか!?スペシャル企画、ということで
大阪を飛び出して村上春樹ゆかりの地で行いますよ~!
 
to be continued…

21世紀名作映画この10本①:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とつなぐ力

二人のマックス

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)は独白から始まる。"Once I was a cop." その第一声を聞いた瞬間、観客の脳裏には『マッドマックス』(1979)でのメル・ギブソンの勇姿がよみがえるだろう。車に押し潰される娘のフラッシュバックも、1作目の暴走族に轢かれ死んだ幼い息子のイメージを大枠で反復する。そう、本作は三十年ぶりに帰ってきたマックス・ロカタンスキーの冒険譚なのだ。もともと寡黙なはずのマックスの独白は、過去シリーズのメル・ギブソンと本作のトム・ハーディーという異なる二人の俳優=二人のマックスをつなぎ、同一性を持たせる役割を果たしている。

 

作用と反作用

 『怒りのデス・ロード』の世界は、厳密な作用・反作用の法則が支配している。

① 冒頭のシークエンス、マックスは逃亡を図りクレーンのような鉤に飛び移るが、振り子の反動で戻ってきてしまいウォーボーイズに捕まってしまう。

②「人食い男爵」の兵士は棒高跳びのように棒を振り子に使って相手車両に乗り込む。

③ イモータン・ジョーの本拠シタデルはさまざまな部分が鎖でつながれ、滑車を使ったリフトまで備えている。

④ ぬかるみにはまって動けないウォータンクは、ウィンチを木にくくりつけて張力を得ることで脱出することができる。

⑤ イモータン・ジョーお抱えのギタリストはワイヤーで吊るされているし、観客に向かって画面を飛び出そうとするギターはバンドの張力で奥に戻る。

 …などなど。本作の画面にみなぎるダイナミックな興奮は、この独特な世界観からもたらされている。この世界では、普通の人間は作用と反作用の力学を生きるほかない。したがってそこで崇拝されるのは、個々の力の足し算をはるかに超えた力を生み出す2つの存在である。それは、V8エンジンとイモータン・ジョーだ。この2つの存在はいわば、この作品の核となっている。

 

支配と従属

 圧倒的な力を持つがゆえにイモータン・ジョーは人々を束縛し、所有物(property)として支配する。マックスは手錠と口枷をかけられる。乳母は乳房をつながれ母乳を搾取される。妻たちには貞操帯を付けさせ、まるで金庫のような堅牢な部屋に閉じ込める。"We are not things. "と落書きして脱走した妻たちとフュリオサをジョーが必死になって追うのも、愛憎のためというより妻たちとお腹の中にいる嫡子をシタデルにつなぎとめるためだ。ここでは「つなぐ」モチーフがすべて支配と従属に転落してしまっている。ちょうどウォーボーイズたちが画面に映るやいなや最初にした行動の一つが、ウォータンクにその燃料を供給する車両を「つなぐ」ことだったように。しかし皮肉にもジョーの追跡は、スプレンディドとお腹の子をつないでいたへその緒を医師が捨て去るように、関係を切断する結果しかもたらさなかった。

 

「つながれる」マックスと「つながる」マックス
 マックスがニュークスにつながれたのも、当初は「血液袋」としての使用価値のためでしかなかった。マックスは気絶したニュークスの手を吹き飛ばして鎖を外そうとするが銃が不発、嫌々ニュークスを担いでいくことになる。しかしつながれた身どうし文字通り運命共同体としてフュリオサ&妻たちと戦い協力して銃を組み立てた時(名シーンの一つ)、鎖は支配ー従属とは別の協働性を表している。同じことはマックスとフュリオサにも言える。当初は銃で支配されたり交換条件を提示されたりでやむなく共に行動していた。が、二人で協力して峡谷を突破したりマックスの肩を支えにフュリオサがライフルを撃ったり(またも名シーン)する中で共闘関係が形成されていく。最後にはマックスが自分の意志でフュリオサにシタデルに戻る作戦を提案して握手=手を「つなぎ」、また瀕死のフュリオサに自らを血液袋として「つなぐ」までになるのだ。『怒りのデス・ロード』の主人公たちの間には、イモータン・ジョーと周囲との間の支配=従属関係とは異なる、共同的=協働的な関係が生まれている。

 

切り返し

 技法面でも同じことが言える。編集という、シーン間のつながりに着目してみよう。本作の編集には人物と人物の視線のイマジナリーラインを守る「切り返し」が多用されている。例えばフュリオサがウォータンクでウォーボーイズを蹴散らしていく時、運転席のフュリオサのカットの次に、轢かれる側のウォーボーイズの表情や視線のカットが割り当てられる。作品世界のルールが作用ー反作用の力学であれば、作品を作るルールが切り返しなのだ。そしてそれらは一つの運動として観客に快感を与える。
 カットの連接は視線のドラマを生む。マックスとフュリオサは、「血液袋」時代に車にくくりつけられていたマックスが偶然フュリオサと目が合って以来、クライマックスでのガラス越しの切り返しやラストシーンに至るまで何回も視線を交換し合う。ジョーの妻たちとの場面についても、マックスをスプレンディドが助け、そのために撃たれそうになる彼女の無事を運転席からマックスが確認して親指を立てるシーンの切り返しは、後にスプレンディドの死が続くだけにいっそうエモーショナルだ(スプレンディドが轢かれるシーンの処理はマックスのフラッシュバックでの轢かれる娘の表情と重ねられている)。

 

見返さないイモータン・ジョーと見返されるニュークス

 しかしイモータン・ジョーは、自分の背中に粉をふきかけるウォーボーイズや遥か下から自分を双眼鏡で捉える民衆に対して視線を返そうとしない存在なのだ。序盤でフュリオサを追いかけるニュークスはジョーが自分を見てくれたと感じ、"He looked at me in the eye! "と有頂天になる。しかしそれは錯覚にすぎなかった。ニュークスは血液袋にすぎなかったマックスにすらも、"Witness me, blood bag! "と呼びかけざるを得ない、見返されることに飢えていた人物だ。『怒りのデス・ロード』は"I am awaited. "と盲信しながら"Witness me!(俺を見ろ)"と仮想の他者に呼びかけていたニュークスが、現実の仲間たちに視線を切り返してもらいながら幸せな最期を迎える映画なのだ。ニュークスがハンドルを切る場面が異様に感動的なのはそのためである。一方ジョーは、フュリオサの"Do you remember me? "の問いかけをまさに"in the eye "でただ一度見返しながら死んでいく。

 

結合と解放

 フュリオサが故郷を目指して飛び出した物語は、振り子のように、(あるいは切り返しのように?)現在のシタデルに帰還する場面で終わる。ヒーローとしての役割を終えたマックスは、一度フュリオサの視線を受け止めてうなずき、民衆の中に消えていく。その視線の結合はお互いを支配するものでなく、お互いを解放することで新たに結びつけるものだ。ラストシーンのフュリオサの表情に観客は、『マッドマックス2』のマックス自身(両者とも、最後には片眼を負傷している!)や『マッドマックス/サンダードーム』の女支配者の残像を見ることができる。しかしそれだけではない。三十年間の空白を打破してシリーズを結合するという偉業を成し遂げた『怒りのデス・ロード』は、まさに今、未だ撮られざる新たな「マッドマックス」に向かい開かれたところだ。

(M/T)

 

村上春樹読書会記録 『海辺のカフカ』

М   さあ始まりました!村上春樹読書会!
猫先生 パフパフパフ!
М   第1回は『海辺のカフカ』をお送りします。
猫先生 イェーイ!
М   МCはわたくしМが、みなさまのお相手させていただきます。これから一時間よろしくお願いしまーす!
猫先生 よっ日本一!
М   ではメンバー紹介!
猫先生 レギュラー相談員の猫先生です。よろしくー!(2名の心ない拍手)
М   そして…?
何苦楚 スペシャルゲストの何苦楚ですよろしくお願いします。(2名の心ない拍手)
М   以上3名で進行していきます。今日はねー、『海辺のカフカ』ということで、これから春樹作品を全作品読んでいくわけですけれども、えー、その中でも
店員さん ブレンドご注文のお客様?
(タイミングの良さに全員爆笑。店員さんがコーヒー並べ終わるまで中断。)
М   ということでおわかりの通り、星乃珈琲で収録させていただいております。名前がね、この小説に「ホシノくん」が出てくるということで
何苦楚 そうそう。
М   …それにちなんで、ここを会場にしたんですけども。
何苦楚 ホシノくんに似合わぬ、ハイソな感じですね。
(全員沈黙)
猫先生 おっ、さっそく発言が飛び出しました!?そのこころは?
何苦楚 どういうフリなんだよ?
猫先生 まずなんかテーマ設定しよう。
М   ではテーマ!海辺のカフカ』は、2002年に発表された、村上春樹の10番目の長編小説である。
何苦楚 急に○×クイズみたいだな。
М   で発表当時は、少年が主人公だとか、謎めいたタイトルだとか、いろいろ物議をかもしたと。みなさんは記憶にありますか?
猫先生 まるで記憶にない。
何苦楚 2002年だっけ?初めて読んだのが2005年ぐらいだから、わりと最近の、そこそこ新しい作品と認識していた。
М   だから『1Q84』(2009-10)で最近大ブームなったけど、ああいう感じで新潮社が広告打ったのの最初がこれやねん。
何苦楚 あそうなんだ。
М   っていうか初めて新潮社と組んだんちゃうかな?(カバー折り返しの著作一覧を見て確かめる)あ、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)も新潮か。
何苦楚 新潮だったら『ねじ巻き鳥クロニクル』(1994-95)もそうだ。
М   あ『ねじ巻き鳥』もそうなん。じゃあだいたいそうやん。(一同失笑)
で「少年の話らしい。」とか「四国の話らしい。」とか謎めいたキャッチコピーで引きつけて、発売日に平積みにして爆発的に売る、っていうハルキブームの最初がこの作品。
猫先生 じゃあ新潮社がえらいんだね。
何苦楚 ある種ノーベル賞的な流れはこっから生まれたのか。
М   そう!(断言)
猫先生 選択は正しかったわけだね、第1回にこの作品を選んだの。
М   で、この読書会の主旨が、村上春樹ノーベル文学賞を、まあもう獲れないわけですけれども、「ノーベル文学賞に一番近づいたのはいつなのか」を検証するっているのをテーマにしています。まず『海辺のカフカ』、これ上下巻に分かれていて単行本も同じ形式です。で同時発売。だから『ねじ巻き鳥』とか『1Q84』のあの1・2出してから最後に3出す、みたいなのとはちょっと違って、最初から完結したものとして出されてる。で二章構造が採用されていますね。これはみなさんどう思いますか?
何苦楚 なんで急に国語の先生みたいなったんだ?
猫先生 はいはーい先生、「二章構造」って何ですかー?
М   奇数章でカフカ少年の話、偶数章で戦時中の謎めいた事件の話からナカタさんの話、って出てきてますね。で交互に織り重なるようになっていって、結局カフカ君とナカタさんは出会わない、出会わずに終了するってことになるわけです。でもカフカ君が行った高松にナカタさんも行き、カフカ君が泊まっていた甲村図書館に行って佐伯さんに会い、って交錯するように描かれています。これは他の村上春樹作品で言うと『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、私立探偵「私」と、「僕」やっけ?あの春樹みたいなクソなやつ(何苦楚爆笑)との二重主人公みたいなのがこれの源流にあって、もちろん今の読者的には『1Q84』の青豆と天吾を思い出させるわけです。この構成はみなさんどう思いますか?
何苦楚 まあ『世界の終り~』の続編っぽいっていうのは言われてきたわけで…
М   そうなん?!どのへんが?
何苦楚 つまり、森に行った影がどうなるかっていうのが書かれてるんだ。(ここから『世界の終り~』のあらすじ解説。ネタバレを含むので割愛)。で「僕」が「森に残るんだ」みたいなこと言って終わる。
М   それで当時の読者が、「はあ?なんやねんそれぇ?」って思った人が半分と、「すごい結末や」と思った人が半分。普通やったら幻想の中にとどまるなんて結末ありえないやん。現実に戻って終わる、戻ろうよぐらいな。スタジオジブリでも何でもそう。やけど『千と千尋』で言ったらあの世界から戻らずに終わっちゃうぐらいの衝撃。
何苦楚 そうそう、それぐらい。でもこの結末は村上春樹の中でも揺れてるところで、その前に「街と、その不確かな壁」っていうプロトタイプみたいな中編が、どっかの雑誌に掲載されていて[注: 1980年『文學界』9月号]、そこの結末は完全に「僕」が「世界の終り」から逃げ出すっていう形で終わるわけ。それが長編になった時に結末が変更されて、『海辺のカフカ』でまた「森に行った僕がどうなるのか」っていう問題意識が…。
М   いや森から帰ってくるやん!帰ってきちゃうやん!
何苦楚 そう、それが春樹の思想の転回というふうによく言われる。っていう意味において『ハードボイルド・ワンダーランド』の続編と考えられる
М   なるほどー。
何苦楚 …って言われるんだけど、最初読んだ時全然わかってなくて。今回読んだ時まあそうなのかなと思ったけど。
М   でもさ、『ハードボイルド・ワンダーランド』は明確に「世界の終り」っていう世界と「ハードボイルド・ワンダーランド」っていう世界が別の物としてあるやん?
何苦楚 そうそう、時間的にもバラバラだし。
М   一方『海辺のカフカ』は、同じ日本で、同じ時空間の中にいると。田村カフカ君の世界の中に「森」っていうのがあって、それは『世界の終り~』のやみくろとかが出てくる謎の世界、もっと言うと『1Q84』のリトル・ピープルが出てくる謎の世界みたいに、作品世界の中の上位にある、謎のワールドになってる。でそこにつながるためには、「入り口の石」的なアイテムが必要、って構造になってるよね。RPGと一緒で。
    で『ねじ巻き鳥~』の話が出たけど、あの時はノモンハン戦争、今回『海辺のカフカ』では日本での戦時体験をアメリカ側のロバート・オコンネル少尉が質問するっていう文書が差し挟まれてて、現在と過去の二層がある。ただ、『ねじ巻き鳥~』にあった戦時中の残酷な描写は、今回は過去パートにはなくて、現在でナカタさんが対決するジョニー・ウォーカーの猫殺しの所が突出して残酷な描写になってる、と。
何苦楚 これ読めないよね?この心臓食べるところ。目を背けたくなる。
М   そうか?
何苦楚 あれ?そうでもない?
М   全然リアリティーなかったから何とも思わんかった。となりの山田くん』くらいの作画でスプラッター描写されてる感じ。
何苦楚 それは逆に怖いだろ!

   *   *   *


М   その「二層構造」の話はどうですか?他に何か意見ありませんか?
何苦楚 時間軸がよくわからないってのはある。森に入っていくのと入り口の石をひっくり返すっていうのがかなり連動してて、そこらへんで登場人物がみんな「今日は何曜日か」って曜日を意識するようになるんだよ。
М   そうなん?!それはすごい!
何苦楚 図書館が閉館なのが月曜日で、章ごとに一日くらいずれてるんだ。あと雷の話が偶数章ではあるのに、奇数章ではふれられていなくて、ほんとに同一の時空間なのか…。例えば第36章で、まあこれはホシノくんだけど、「…となると今日は金曜日だ。」(下p237)ってある。で「僕」の方は、第39章で「今日は火曜日だと僕は計算する。」(下p301)って思ってる。たしか火曜日がホシノ青年とナカタさんが図書館に行く日なんだよ。なぜなら月曜日が閉館で、その「翌朝の11時」(下p317)にもう一度出かけるから。でも第40章は月曜日の描写から始まっている。
М   だからずれている、と?
何苦楚 まあずれているのか、単に「僕」が先行していてホシノ・ナカタの二人が追いかけているのか…。だからほんとに同一世界なのかっていうのは…
М   え、同一世界ではあるやろ?やって佐伯さんに最後会うやん。
何苦楚 まあもちろんそうなんだけど、ある種途中がパラレルワールド的に展開してる可能性がある。やたら曜日の話を章の先頭に持ってきて時間を意識させる書きぶりになってるのが気になった。
М   なるほど!
何苦楚 これは俺の読み方だから、ちゃんと確認すればMの言う通り同一世界ってわかるかも。
М   同一世界であって、別の時間を切り取ってあえて並べてるっていうのも考えられるよな?それが一番重要になるのって、ナカタさんがジョニー・ウォーカーを殺害するやん?それとカフカ少年の手に血が付いてるのが同時なんかっていうとこじゃない?
猫先生 すごい取り残された感あるけど…じゃあ質問しよう。ナカタさんがジョニー・ウォーカー殺したっていうのと、少年の手に血が付いてみたいなところは…別に関係ないんでしょ?
М   え、ないんですか?
猫先生 だってナカタさんの殺人はナカタさんの章で完結してるわけじゃん?だから日付が一致してたりしてなかったりはあんま関係なくない?
М   それはリアリティーのレベルでは、田村カフカ君はこの時東京にいなかった。けど、それこそ「メタファー」のレベルでは、自分が手を汚したってことになるんちゃうかな?
何苦楚 第9章で血が付いている描写があるから、「5月28日」(上p141)。ジョニー・ウォーカー殺すのはどこだっけ?
猫先生 もっと後だよね?
何苦楚 第16章、上巻p315か。これは全然連動してる感ないね。
М   でもさ、読んでたら「あ、これがあの血の原因やったんや!」って思わへん
猫先生 全然思わなかった。だって必然性も何もないじゃん。
М   それは春樹ってそういうやつやから。…ちょっと待って、第21章の最初に新聞記事があって、そこには田村浩一氏の警察が発表した死亡推定時刻が「28日の夕刻」(上p413)ってあるから、父が死んだのと血が付いたのはほぼ同時と考えられる。あとジョニー・ウォーカーが死んだのはいつかって言うと…。
何苦楚 田村浩一が?
М   そう、「ジョニー・ウォーカーが田村浩一だ」って読み取らせようってのはあるけど…
何苦楚 え?これ何?あれ?(大混乱)
М   ジョニー・ウォーカーが死んだ」っていうのと「田村浩一が死んだ」っていうのが同じタイミングで読者に明らかになるっていうのは、二人は同一人物だと読み取らせようとしてるってわけですね。でもそれが本当に同一人物だっていう保証はない。カフカ君が「自分の周りには処刑機械が実在した」って言ってるのと考え合わせるとそうかなーってなるけど、でもお父さんがジョニー・ウォーカーの格好して「俺はジョニー・ウォーカーだ」とか言ってるのはリアリティーないやん?
猫先生 それはおかしいよ。だって、ナカタさんが殺したのと少年に血が付いてたのが連動してるリアリティーがないって言ったら「それはそういう小説だから」って言って、ジョニー・ウォーカーの格好して出てきたのは「リアリティーないやん!」ってツッコむのはおかしいだろ。最初からそういうものだって読むんだったらぜんぶそういうものだと思って読まなきゃしょうがないじゃん。
何苦楚 なんでそこだけいきなり別人説を唱えだしたのかよくわかんないんだけど。
М   リアリティーないのは最初からわかりきってるけど、あとはそれを受け入れるかどうかってことやと思う。俺は…
猫先生 じゃあジョニー・ウォーカーとして見えたのも受け入れなきゃ。
М   俺は…受け入れない。
何苦楚 その線引きの基準なんなんだ(笑)
М   つまり、「田村浩一=ジョニー・ウォーカー」ってのは、描かれてないやん。
猫先生 そんなこと言ったらなんにも描いてないじゃんこの小説!
М   でも描かれてないのに読者に伝わってるってことは、示されてるわけですよ!じゃあどうやって示されてるかって言ったら、それはこの「章を並べる」っていう構成によって示されてるにすぎない。ジョニー・ウォーカー殺しと田村浩一っていう名前が出てくるのをすぐ前後にすることによって。
猫先生 日付が、って言うんだったら日付を細かく読めば一致してるのがわかるかもしれないけど、章の対応関係はまるでないじゃん。
М   え、じゃあ猫先生はこの「二章構造」は失敗していると?
猫先生 失敗以前に二章構造になってないじゃん!単に交互に並んでるだけだと思ってたよ。二章構造にするなら「カフカ君の章 1234…」「ナカタさんの章 1234…」って並べないと。最初に「カラスと呼ばれた少年」って章外章があるけど、最初の数章は米軍がどうこうってのも含めて、章外章じゃん。あと一番嫌だったのは上巻のp33に「OWAN-YAMA, “Rice Bowl Hill”」って注が付いててこれ何って思った。
何苦楚 ここだけなんで注付けたんだ(笑)
猫先生 こういうのやるんだったらさ…つまり、語り手がカフカ少年とナカタさんに特化します、それはいいよ。交互に章を配します、それもいいよ。でもその場合はさー、それ以外の視点にはそれ以外の位置づけを与えなきゃダメじゃん。
М   カフカ少年は、語り手そのものやから、「僕」って言って語ってるから、それはいいです。でもナカタさんパートは三人称やから、誰かが資料を提示してる、で資料が始まる前に「当文書は…」(上p26)って説明してる人がいる、おそらくこの作品内の作者だろうと思われる人がいる。そういう構造では?
何苦楚 でも気づいて嫌だったのは、今の注の話で人称が違うっていうのが。
М   人称も違うし、視点のあり方が偶数章は超越的な感じになってる。
何苦楚 そうだね、そして書簡がくるじゃん。
猫先生 人称は混乱してるよ。書簡の中では「私」・「僕」になるんだから。「ナカタさん」って書かれてる人称の章は統一されてると言えるかもしれない。でもそれは偶数章じゃないじゃん。偶数章のうち、文書や書簡の形式を取らないものにすぎないじゃん。
М   でも手紙を提示してる誰かがいるんやからそれは第三人称では?手紙の中は一人称でも、大枠で作ってるのは三人称の全知全能の語り手やから、三人称。
猫先生 でもそれだと三人称パートをナカタさんで代表させることはできないでしょ?対立は「カフカ」対「それ以外」であって。作品として提示するときはさ、三人称は三人称に徹しないとダメじゃん。後半結局ナカタさんは「ミニ・僕」になっていくわけじゃん、半分ホシノくん、みたいな。それだったら偶数章はとにかく客観的な叙述でいろんな人の視点が出てくるとかにしないと。
М   確かに三人称だけど焦点が当たってるのはナカタさん・ホシノくんだけですね。
猫先生 両方特化した小説はすでにあるわけじゃん。挟まれるのが常に客観的なデータで…スティーブン・キングもよくやるじゃん、新聞記事がドーンみたいな。あと逆に主人公が二人で交互に出てくる小説もあるわけじゃん。これ一番中途半端だよ。
М   先例を言うとわれらがチャールズ・ディケンズも、『荒涼館』という小説で三人称・客観的記述とエスターという女の子の一人称を交互に書いて事件の全貌を示す、みたいなことはうまいことやってますね。[注: Mはディケンズ大好き]
何苦楚 まあうまくいってるかうまくいってないかっていうのはその効果の問題じゃない?結局なんでそういう構成にしたかっていう。
猫先生 そうなんだよ、結局そこに戻ってくるんだけど、奇数章と偶数章に分かれてる構造っていうのは全然効果を発揮してないと思う。
М   ってことは失敗ってことでいい?(笑)やって絶対これは意図してやってるから。これを意図せずなってましたー、っていうのは通じないと思う。
何苦楚 あえて不完全さを残してるってこともあるとは思うけど…?
猫先生 意図ったってどこまでも意図かねえ?交互に並べただけで、そんなにきっぱり分けてないんじゃないのこれはもはや?
М   いやー、これは…。例えばスタインベックの『怒りの葡萄』も奇数章・偶数章で分かれる構成やし、『怒りの葡萄』って『海辺のカフカ』と同じロードノベルなんですよ。トラック乗ったりするし。春樹は絶対そういうの意識して「俺もやったるぞ!」って思って書いてると思う。
猫先生 『怒りの葡萄』は最初完全に客観視点から始まるじゃん?
М   そうそう、道の上を這うカメの描写。
猫先生 まるで映画の遠景のように、家族がトラックに乗せてもらうところを遠くからグーッと寄っていくわけでしょ?
М   あれはどちらも三人称なんやけど、奇数章はある家族の話、偶数章は歴史記述とか社会描写みたいな、それがどんどん交替していくんですよ。『カフカ』も最初の何章かはそれっぽい。
何苦楚 第6章から現在のナカタさんが登場するんだけど、第2・4章の出来事はナカタさんに寄り添って語りようがない。
猫先生 でもその後また書簡が復活するじゃん?
何苦楚 うん。でも2章・4章であえてこういう風にした効果があると考えるならば、ナカタさんはこの時この世界にいなくて、どっかに行ってしまっていたという空白を示す効果があるんじゃないか。第6章以降われわれはナカタさんに共感を覚えながら読んでいくわけだけど、第2・4章はそれができないわけじゃん。ナカタさんの「半分の影」みたいなのを、あらかじめ読者に…。
猫先生 じゃあ第12章(担任の先生の手紙)なんかは?
何苦楚 たしかに…この章はどういう意味があるのか、でもナカタさん視点ではこのストーリーは書けないから…。
猫先生 だからもう全然いいかげんなってる、グダグダじゃん。
何苦楚 でもこれが6章じゃなくて12章にあるっていうのは、トリガーとしての「血」があると思う。ナカタさんが最初にこの世界から失われてしまったトリガーは血の付いた手ぬぐいだし。
М   女教師の生理の時の血と、カフカ少年に付いた血は、モチーフとして重なっているな。
何苦楚 もう一個、ナカタ少年が昏睡から目覚めるのも、血がきっかけになってる。「採血した血液がシーツの上に散るということがありました。[…]あえていつもと違うことといえば、それくらいです。」(上p139)って書いてるから。
猫先生 あごめん、混乱してたわ。カフカ少年が神社の境内で目覚めた時の血、俺これかと思ってた。
М   でも確かに。章として並んでる!
猫先生 だからカフカ少年がぶっ飛んでたのは、ナカタさんと同じとこにいたんだと思ってた。「すっぽりと記憶が抜け落ちているんだ」(上p179)って言ってるし、俺はそれが自然だと思う。それで、最初の方で「姉とヤる」って場面があるじゃん。
何苦楚 さくらさんね。
猫先生 その時も、手になんかどろっとしたものが付いてんだよ、カフカ少年に。でもナカタさんの方にはそれに対応するものないから、「あもうメチャクチャやな」って思った。
何苦楚・М (爆笑)
猫先生 ただイメージだけで書いてるなーと。
М   つまりは…失敗作!!
猫先生 それからさっきの話に補足するとさ、「カラスと呼ばれた少年」っていう章外章が一番最初と第46章の後にあるけど、これはカフカ少年にとっての章外章でしょ?だったら、ナカタさんにとっての章外章のこういう扱いにした方がバランスは取れるんじゃない?
何苦楚 …まあ、そこはでも好みの問題なんじゃない?どこまで作品の統一感を重視するかっていう。
猫先生 確かに好みの問題だ(笑) 俺はさ、叙述トリックが好きなんだよ。あれは誰がどういう形式で語っているかっていうのをものすごく細かく決めて書くわけじゃない。そうするとこういう鈍感な書き方をされるとたまらないよー。
何苦楚 鈍感、か(笑)
М   この鈍感野郎が…!ってなる、と。(笑)
猫先生 なんとなく混然一体とするっていう部分を残してるってのはそうなんだけど。
何苦楚 この人やっぱり不完全さをある種追求してる面はあるよね。
猫先生 それに酔わないと読めないのかと思うとうんざりしてくるね(笑)

M   やれやれ(言いたいだけ)
何苦楚 システムがあってそれがバグを起こしてるってのは『世界の終り~』でやってるけど…。
猫先生 さっきから話聞いてると『~ハードボイルド・ワンダーランド』の方が構成かっちりしてそうだから、次回はそれにしよう!


   *   *   *

 


М   書き出しは、ねえ、気合い入れて書いてるとは思うけど、後から考えたら失敗してるでしょ(笑) 読者を連れて行くドライブ感としてはだいぶいいと思うで。「カラスと呼ばれた少年」で「何これ?」ってなって1章、でもそれしか考えてない。
何苦楚 出オチみたいな(笑)
猫先生 だからあれだ、2章までの原稿持ってって、残り円城塔に書いてもらえばいい。
М   円城さんめっちゃ人の作品途中から書くなー(笑) 奇数章が一人称、偶数章が三人称、で奇数章の中でも「君」って呼びかけるところがあって、二人称も使ってる。読んでいくと、「僕」と「カラス」が同一人格の中におって、カラスの目線から自分に呼びかける時に「君」って言ってんねんなー、っていうことがわかってくる。
猫先生 うん、それに異論はない。
М   で問題は、それがどこまで成功してんのかと。やってカラスとかほんま都合いいとこでしか出てけえへんやん。
猫先生 まあでも自分の中に対応者を作るっていうの、孤独の少年の心境としてはわからなくもない。そこはなんか普通に読めたね。
何苦楚 それと同時に、ほら、佐伯さんの恋人の名前なんて言ったっけ?
猫先生 え、あの口から出てきたウナギみたいなやつ?
何苦楚 それはナカタさんから出てきたウナギ!(笑)
猫先生 ちがうっけ、そこリンクしてるのかと思ってたわ。
М   なんでもリンクできちゃうから(笑)
何苦楚 そうだね、メタファーだから(笑)
猫先生 ってなっちゃうじゃん、それが嫌なのよ。まいいや、恋人名前出てきてないけど、あの学生運動で殺されちゃった人ね。
何苦楚 その恋人と、最後の方で「僕」が同期するじゃないですか。
М   その時ずっと「君」になってるね。
何苦楚 それと、カラスとの「僕-君」関係とはまた違うんですかね。
猫先生 そこの場面だけだったかどうかは忘れたけど、カラスが出てきてないのに「君」になる箇所はいくつかあった。
М   「君」っていうのも、春樹はこのすぐ後かな?『アフターダーク』(2004)で「私たち」が登場人物のエリに届いてない声で語るような変な呼びかけ文体を使う。それからよくわからんゴシック体の使用も『1Q84』で、天吾の記憶シーンで使ってる。
猫先生 自分の中のもう一人の自分が出てきて「君」で呼びかけるところはゴシック体とかだったらわかるけど、そういうんじゃないんだよ。厳密に言うと、ゴシック体になってるところはおおよそ「君」になってる。逆に、「君」になってるところが必ずゴシック体になってるかっていうと、そうじゃない。
何苦楚 下巻の「僕は彼女の肩に手をまわす。/君は彼女の肩に手をまわす。」(下p153)とかは、ゴシック体じゃなくて…
猫先生 そうそう、傍点なんだよね。…気持ちわりぃ!(一同爆笑)
    それからもうこの153ページ、半分くらい白紙のページなのにめちゃくちゃ気持ち悪いよ!
М   「おいしいパエリアを食べる」って(笑)
猫先生 「橋を爆破する」「そしてイングリッド・バーグマンと恋に落ちる」って順序逆だからね!橋爆破したの最後だろ。[注: サム・ウッド監督の映画『誰がために鐘は鳴る』(1943)]
М   いやいやいや、そこはわからんしどっちでもいいわ(笑) まあでも「僕」と「君」を行きかうっていうのは、この後日本現代小説のトレンドの一つになりますから。
猫先生 これがトレンド作ったわけ?文学終わってるな。
何苦楚 それほんとに正しいの?
М   「移人称小説」って名付けられてんねんけど、今の文芸誌見てみ、ぜんぶこんな感じやで。ぜんぶ「パエリアを食べる」とか…
何苦楚 パエリア人称と関係ないわ!
М   新書で書いて出したらいいねん。売れるで、『パエリアを食べる日本文学』
猫先生 ベスト選書『君はパエリアを食べる』
М   この次のページとかもね。「長いあいだそれは君の心にとどまっている。そしてやがて君の一部になる。」(下p155)、まあそれはいいとして。「佐伯さんがいなくなったあとには涙に濡れた枕が残されている。君はその湿り気に手をあてながら、窓の外で空がしだいに白んでいくのを眺めている。」(同)、って完全にカメラ・アイやん、いちおう呼びかけやけど。「地球がゆっくりと回転をつづけている。そしてそれとはべつに、みんな夢の中で生きている。」(同)ってこれ誰やねん語ってんの!これはさすがになるで。
    ほんで第32章見ると、ナカタさんパートで図書館について「どんな都会の通りにもそのような、遥か恩寵から遠ざけられた建物がある。チャールズ・ディケンズならそういう建物について、10ページくらい描写を続けることができただろう。」(下p157)って描写があるねん。
猫先生 M君が読み落とせないところだね。
何苦楚 おっ、ディケンズ好きとしてはどうですか?
М   いや別にええねんけど(笑)、でもこれを言ってんのはさっきまでナカタさんパートの語り手と同じなんかっていうと違うやん。もっと無色透明に語ってたやん。ナカタさんとネコの会話に茶々入れたりしてへんかったやん。
猫先生 星野も、ホシノだったり星野さんだったり星野青年だったり表記の揺れがムチャクチャだもんなー。
М   まあでもそれがやりたかったんかな?結局春樹としては、「隔てられたものが共振していく」っていうのがテーマの一つではあるやん?カフカとナカタさんっていう全然違う存在が、出会うことはないけど、結局同じ所に向かって同じ佐伯さんに会うとかさ。だから語り手も、一人称と三人称で分けてたけど同じような感じに下巻ではなってるっていうのも狙いなんかな?
何苦楚 その場合、ホシノがカタカナになったり漢字になったりっていうのは?
М   だから、ナカタさんパートが三人称じゃないってことやん。
猫先生 要するにAとBは違うことだけど、Aが揺れてBが揺れたら似たように見えるってことじゃないの?(←乱暴)星野も「ナカタさん」みたいに「ホシノさん」って書かれることもあるし、「カフカ少年」みたいに「星野青年」って書かれることもあるし。
М   表記については狙ってると思いますけどね。最後に星野がナカタさんに言う場面あるやん、「おじさんは俺という人間を変えちまったんだ」(下p395)、ありがとう、みたいな。昔の自分じゃない、っていうのが表記に出てる。
何苦楚 実際一番成長してるのがホシノくんだから。
猫先生 いや成長はないだろ?こいつ最初から達観してるよ。トラック運転手でこんなに自分のこと客観的に見られるやついないよ。
М   成長とは違うけど、ただ最初の登場の時の星野の書き方と、後の方の書き方は全然ちゃうと思いますね。計算外のことがいっぱい起きてると思う。最初はナカタさんに「日本がアメリカに占領されるわけがないじゃないか」(上p457)とか言ってて、すごいそのさ、アメリカ映画に出てくるステレオタイプな労働者階級のアホなやつみたいな感じやったのに、最後「トリュフォーが」「ハイドンが」とか言い出す(笑)
猫先生 だから村上春樹は一貫して人物を描けないってことでしょ。
何苦楚 やっぱ成長譚なんじゃないの?
М   成長譚なんやけど、成長の方向が、物知らんかった人が春樹みたいなって「やれやれ」とか「諸君、焚き火の時間だ」とか言えたりするのが「成長」っていう見方しかできないねんこの作者。やってこの小説の中で「やれやれ」っていうのホシノくんだけやで?
猫先生 そう、ホシノが多いけど、「君」で語りかけるところでも何か使ってたよ。「やれやれ」を意図的に使うであれどうであれ、達観した側の言葉だよね。物を知らなかった人がハイドンを語れるようになることが成長を示しているわけだ(笑)
    この星野青年の出方も、これは好き嫌いの問題かもしれないけど俺が嫌なのは、ナカタさんが移動を始めるわけじゃん?そこで何人か出てきた後で星野青年が出てくる。非常にノリにくいよねー。
М   いやそうかな?そこは結構いいと思うけど。それぞれのキャラクターが出てきて。
猫先生 だからそれぞれのキャラクターで乗り継いでってロードムービーみたいに見せてくれんのかと思うと、いつの間にか星野青年出ずっぱりで「あ、この人に感情移入すんのかよ」って思う。
М   ああ、それは確かにありますね。
猫先生 ほんとに気持ち悪い。相棒一人でバディ物みたいにするんだったら、そのバディの登場シーンは他の人と違うようにしてほしいわけ。いつ乗り換えんのかなって読んでたらいつの間にか「あ、残り全部星野さんなんだな」って下巻100ページくらいで気づくわけじゃん。こういうの嫌なんだよね!いつの間にかなんとなく、っていうのがね。
    最初に乗った時の感じの方が実は俺は好きだった。それぞれの地域にそれぞれの個性を持った人がいて、ちょっとずつお世話になって、最後の一人に「ナカタはお金を使っておりません」って言うの、すごい物語として楽しいと思うのよね。それが結局星野かよ、…っていうのが私の不満です。
何苦楚 なるほど。
М   ここのナカタさんが乗り継いでいくシーンっていうのは、まあもうちょっと長くていろんな人が出てきたらよかったっていうのは確かに思うけど、村上春樹文学の中でこういう人たちを描いたっていうのはこれが初めてやと思うから、僕は楽しかったけどね。こんな普通に働いてる人出てきてないでしょ?
何苦楚 確かに。みんなハワイに生きてて、サンドイッチ食べて、みたいな。
猫先生 この小説に100点満点で10点ぐらいあげるとしたらね、ナカタさんが動き始めてから星野青年と会うまでに出てきた人たち。
М   あー、わかるわそれ。
猫先生 あーなんか動き出したっていう感じ。
М   ハギタさんとか、ニヒルでいい。
猫先生 一番いいのは、お互い連携したわけじゃないのに、一番最後にナカタさんが「みなさんのお世話になり続けまして…」って言うのが映画的で面白い
М   今のところが、この小説で一番現実に近づいた場面やと思うねん。春樹のグランドデザインとしては、奇数章はリアリスティックに書いて、偶数章は「戦争中に実は…」みたいな嘘の歴史やったり、猫と会話する老人がいたり魚が降ってきたり、むっちゃファンタジー。そういうリアリズムとファンタジーの使い分けを意図してたと思うねん。けど、結局カフカ少年のパートはファンタジーになってるやん。でナカタさんパートの運転手さんが出てくるとこが一番リアリスティックなわけやん。それはほんまどうなんかなって思っちゃうんやけど。そこまで含めてデザインです、って言われたら「はあ」ってなるしかないが。
何苦楚 そもそもそのリアリズム対ファンタジーって構造自体「そう?」って思っちゃうけど。
猫先生 うん。全部ファンタジーじゃないのこれ?カフカ少年あんまリアル感ないじゃない。
М   カフカ君いちおう生活の一個一個をちゃんと描写されてるやん。
猫先生 図書館でも生身の人間一人も出てこない。大島さんと佐伯さんと…
何苦楚 フェミニストは?がんばってるフェミニストがいるじゃん。
猫先生 そう、だからフェミニストが出てくるとこだけ描写が異様に浮いちゃうの。
何苦楚 確かにねー。
猫先生 ああいう場面はいいよ、もちろん立場として賛成・反対あるのはともかく。だけどさ、それこの中に全然位置付けられてないじゃない。
何苦楚 そう、不思議だよね。だから逆にあまりに非現実的だから地に足付かそうとして入れたのか…。
猫先生 大島さんの非現実感って、そういうやつらを論破するところにはないだろう。もっと超然としててほしかったというか…。
何苦楚 これは月並みな感想なんだけど、なんでこういう年齢設定にしたのかわからない。「僕」の15歳はいいんだけど、それ以上に大島さんが21歳っていうのが信じられない。
М   21歳?ほんまに?信じられへん、30ぐらいやろ。さくらさんより年下ってこと?あとこれさくらも、全員そうなんやけど都合良すぎやろ!出会い方も。
何苦楚 そうだね。さくらさんは都合良すぎる。これは認める。失敗してると思う。

М   なんでお前が認めるねん、春樹か(笑)
猫先生 これを出すんだったら、さっきのナカタさんじゃないけど、もっと出会いに特化したロードムービーみたいにしてほしかった。
М   ボーイ・ミーツ・ガール的なね。
何苦楚 大島さん21歳、どこに書いてあったか出てこないんだけど…。
猫先生 それはあれじゃない?その章だけ時空が歪んでいて、実際は38歳とか。
М   でもそうか、カフカ少年のとこリアリズムパートと読んでたん俺だけか…。描写の鮮明さというか、細密描写をするやん。リュックに寝袋を入れました、ポンチョを入れました、とか。ナカタさんはそういうのないやん、猫としゃべってますって状況と会話の実況だけやん。その描写の質というか、「解像度」が違うっていう気がしてたから。でも最後の方なるとなー、それもなくなっていくねんなー。「世界」があって、別の視点で別の捉え方で並べて書きました、やったら俺はいいとおもうねんけど。
猫先生 ほんとにこれ、映画化するんだったらウナギが好きな知的障害のおじいさんがロードムービーするとこだけにしてほしい。主演神戸浩で。


   *   *   *

М   ホシノくんが「成長」するっていうのは、わりと見やすい図式やと思う。その成長が俺らからしたら「はあ?」って思うものでも。じゃあ一方でカフカ少年はどうなのか。『海辺のカフカ』ってタイトルにもなってる少年、普通に考えたらこの子が成長する話やねんけど…。
    そもそもこの小説、カフカの『アメリカ』―今は『失踪者』ってタイトルになってるけど―をタイトルからも意識してて、少年が家出するってのは最初の段階で決まってたと思う。それと、神話の枠組みを採用する、まあオイディプス神話やけど、も決めて書き出したのは間違いない。あとはその目論見が成功しているのかってことですよ。
何苦楚 目つぶさないし(笑)
М   目は別につぶさんでもまあええけど(笑)
猫先生 成功も何も、設定だけ聞かされてああそうなんですねって感じだもんねー。最初に「仮説として維持できる」ってセリフが出てきた時点で「もうオチないな」ってなるじゃん。それで押し切るんだなって。
М   その段階ですでに(笑) 佐伯さんが母親ってのも書かれてるわけじゃないしね。
猫先生 だからそういう裏付けはまったく与えてくれないんだなってわかる。
М   ミステリーやったら「この人が母親か」とか「この人じゃなくてあの人だったのか」とかなるけど、そういうのはない。
何苦楚 ミステリーとして読む必要はないんじゃないかな。
М   でも導入部分は完全ミステリーやん。まあ春樹の全作品そうやけど。枠組みとして使うけど…
何苦楚 合ってるかどうかは読み手にゆだねるってことね。
猫先生 イメージで押し切るんだったら大島さんがお姉ちゃんでいいじゃん。実は女だから…って。俺それありかなって思ったら全然そっちの方向に行かないんだもん。
М   でもその方向も読ませようと誘導してると思うけどね。
猫先生 そういう意外な犯人みたいなんもないと何を楽しく読めばいいのか。
何苦楚 だから成長譚なんだって。
М   おっ!じゃあそれを言ってください。どの辺が成長したのか。
何苦楚 カフカ少年が森に行くけど森にとどまんないあたりが成長譚なんだよ。つまり森に行って森にとどまる人っていっぱい出てくるわけじゃん。
М   えっ、ニートのこと?
何苦楚 兵隊が二人いるじゃないですか。でナカタさんも半分どっか行っちゃったじゃないですか。で佐伯さんも半分どっか行く。で僕も森に行って、帰って来る必要ないわけです。予言はこの時点で成就してるから。でもそこからまた戻って来る決断を下したっていうのは、かなりステップアップしてますねって書き方を明確にしてる。
猫先生 佐伯さんも半分行ったの?じゃあなんでバカにならないの?
何苦楚 バカにはなってないけど、ただ感情半分くらい失ってるし…
猫先生 あ、それもなのか。全部あれなんだね、ファジイなイメージで…(笑)
М   佐伯さんってほんとにリアリティーないよな。大島さん以上にないで。
何苦楚 そうだね。
猫先生 そのリアリティーのなさが突き抜けてくれればいいんだけどね。もっと図書館運営してる人がリアルな人たちで一人だけ超然とした人がいる、だったら「その人に起こったことは何なんだろう?」って思って読むわけじゃん。
М   図書館全員リアリティーなくてフワフワしてる(笑)
何苦楚 確かにストーンがない、リアリティーの基準となる点がないんだよね。
猫先生 そうそうそう、「石が重い」って書いてあるだけで重い石がどこにもないんだよ!
М   だからやっぱ、ナカタさんが出会う人たちが基準やろ。俺はほんとあの何ページかはすばらしいと思うけどね。いやすばらしいって言うか、普通の作家としては普通やで!(笑) これできなかったら作家なられへんからな。でも、え、春樹首座ってないけどつかまり立ちはできるんやん!って思った。(もはや悪口)


   *   *   *


М   根本的な問題は、この「僕」に感情移入できないでしょ。
何苦楚 そう、タフだからね。
М   いやタフやからじゃなくて!
猫先生 すごい大ざっぱな話をすると、下巻ぐらいになって、社会での閉塞感をちょっとでも感じてる人だったらナカタさんに感情移入して読めばいいんだなってなっちゃう。
М   そう、ナカタさんは、メタ的にはそう設計されてると思うんやけど、「ナカタはからっぽの器です」みたいなことを言ってて、てことは読者も入れるってことやん。でも、「僕」にはたぶんどの読者も入れないと思う。
何苦楚 そうかな?「僕」って孤独でアイデンティティーが不確かな人だと思うから、「僕」に入るって言うか、シンパシーを感じながら併走していくことはできると思う。
М   まあそうやって読めたらこの小説だいぶ面白いと思うけど、俺は入っていけなかった。
猫先生 だから読者がカフカ少年に入っていけないかわりにカフカ少年はお姉さんの中に入っていったんでしょ?
何苦楚 うまいこと言ってるのかよくわからないけど(笑)
М   「入っていったんでしょ?」ちゃうわ、おもっきり下ネタやん!(笑) カフカ少年が、それこそカフカの「流刑地にて」に出てくる処刑機械の描写について大島さんと話をするところがあって、「その複雑で目的のしれない処刑機械は、現実の僕のまわりに実際に存在したのだ。それは比喩とか寓話とかじゃない。でもたぶんそれは大島さんだけではなく、誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう。」(上p119)って思うんやけど、ってことは俺らにも絶対わからんってことやん。読者の感情移入はここで拒まれてるねん。
猫先生 これは結局…どういう「意味」なの?
М   わからん。もうまったくわからん。これはこの作品の中でも一番わからんとことして放置されてて、もちろん種明かしもない。この作品メタファーって言葉めっちゃ出てきて、「リアリティーではないけどメタファーとしてそうなってる」って現象がいっぱい起きるけど、この処刑機械だけは「比喩とか寓話とかじゃない」って書かれてるから「リアリティーとしてこうです」やねんよな。この一節は小説全体にも逆らうくらいの強烈さで、ゼロ点になってるから感情移入誰もできない。
何苦楚 「処刑機械」が何をさしてるかはわかんないけど、僕の持ってる精神的な閉塞感とか圧迫みたいなものに対する…。
М   でもそれは「比喩」やろ?
何苦楚 そうか、今の言い方だとまさに大島さん的な読み方になっちゃうのか。
М   この小説に出てくる他の意味不明な出来事、魚が降って来るとかも理解はできないけど、読者が何らかの解釈をする可能性には開かれてる。でもここは何の解釈も許しませんって言ってる。それってけっこう強烈やんね。
猫先生 僕は理解不能な出来事が多かったからそこだけだとは思わなかったけど(笑) じゃあさ、何苦楚君が苦しい弁護みたいなるのもアンフェアだから聞くよ…どこが魅力?
何苦楚 うーん、やっぱ最後はうまく落ちてる気がするけどね。
М   (失笑)え、どこが?!?!?
猫先生 「たぶんそれはM君や猫先生だけではなく、誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう。」
М   感情移入拒まれたわ今ので(笑)
何苦楚 第49章じゃん、やっぱり?
М   え、最後の「世界の一部になっている。」ってやつ?
猫先生 それさ、どんな文章1000ページ読まされても最後これ書いてあったらいいってこと?エヴァンゲリオン最短版みたい、オープニング終わったら「おめでとう」みたいな。
何苦楚 それは言いすぎだろ(笑) これカラスって最後までいるんだっけ?
М   いるよ。むしろ最後はカラス視点から「君」で語ってる。「絵を眺めるんだ」「風の音を聞くんだ」とか言ってる。この作者『風の歌を聴け』にどんだけ誇り持ってるねん!
何苦楚 東京から四国に行って東京に帰る、っていう話なのがいい。
М   でもその「行ってきて帰る」って構造自体はありふれた話をあえてやってるわけやん。『スタンド・バイ・ミー』もそう。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もそう。
猫先生 “Kafka. I’m Kafka. It’s OK.”
М   でカフカがナカタさんに輸血して抱き合う、みたいな。(※『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の話が続いております)
何苦楚 やっぱり森なんじゃない?森の描写なんじゃない、キーは。
М   いや森の描写はヘタすぎるやろ!(笑) それこそメタファーとしての森やん。
何苦楚 ごめん森じゃない、森の先の世界かな?時間がなく空間もなく、ただ佐伯さんと、っていう。
猫先生 え、兵隊に導かれて行ったとこ?
М   え、精神と時の部屋みたいなとこ?
猫先生 でも森の家はさー、森の描写じゃないじゃん。
何苦楚 そこが一番おもしろかった。なんかよくわからない空間で…。
猫先生 それはさ、2001年宇宙の旅』の最後に出てきたホテルの部屋を見て「宇宙ええなあ」って言ってるのとおんなじでしょ?それは宇宙じゃないじゃん。
М   たしかに!(笑)すっきりしたわ。いいたとえ。
猫先生 それは宇宙を超えたところにあるものなのかもしれないけど、宇宙じゃないよ。
何苦楚 でもさ、この世界をどう名指せばいいのかわからなくて、おもしろいと思うけど。
猫先生 じゃあやっぱダイレクトに『2001年』のラスト見て「宇宙やー!」ということね。
М   「新しい世界の一部になっている。おめでとう。」
猫先生 世界の一部じゃなくて、「スターチャイルドが待っている。」だよ
М   いやもうそれ完全に2001年宇宙の旅!(笑)ってことで長々お付き合いありがとうございました!次回村上春樹読書会、第2回は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でお会いしましょう!

 

第10回良書読書会記録 津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!!』(6/22)

良書読書会#10 
課題書:『ミュージック・ブレス・ユー!!』(角川文庫 発表2008→文庫化2011)  2019. 6.22@まちライブラリーなんば 発表担当:M/T
《レジュメ》

◆ 人称と視点について(ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(1972)による整理)
人称 ― 最終的な物語内容を誰が語っているか(第五章「態」)
「私はその人を常に先生と呼んでいた。」(一人称)
三四郎は鞄の中から帳面を取り出して日記をつけだした。」(三人称)
 →ただし、三人称と一人称の境界は微妙である。
ジュネットの理論では、どんな物語も『語り手』が『聞き手』に語っていることが前提とされている。このため、いわゆる三人称で物語られる物語にも潜在的には一人称の語り手がいると考えた。つまり潜在的にはすべてが『一人称物語』だと考えたのである。」(橋本陽介『物語論 基礎と応用』講談社選書メチエ、2017年、p107)
(例)実は「一人称」な名作小説 一度しか作中世界に顔を出さない語り手
 フローベールボヴァリー夫人』書き出し 「僕たちは自習室にいた。すると校長が…」

視点(焦点化) ― どこから・どのように語るか(第四章「叙法」)
 ①客観的事実のみ語る(外的焦点化)②人物の内面も語る(内的焦点化)
 (1)視点人物一人(固定焦点)(2)視点人物複数(不定焦点)(3)全員平等(無焦点)

 

津村記久子作品を人称と視点の数で分類してみよう。

『君は永遠にそいつらより若い』・・1人称・1視点(固定焦点)

アレグリアとは仕事ができない」・・3人称・2視点(不定焦点)

「ポトスライムの舟」・・3人称・1視点(固定焦点)

では『ミュージック・ブレス・ユー!!』は??

→3人称・1視点(アザミ視点)のように思えるが、実はチユキがオギウエにフラれる場面(文庫版p.13-23)はチユキの視点である。よって3人称・2視点(不定焦点)。

 

津村記久子ディスコグラフィー(代表作のみ)


『君は永遠にそいつらより若い』(2005) 太宰治賞受賞

「ファウンテンズ・オブ・ウェインというバンドが好きなんだけど、三枚目の九曲めに『ヘイ・ジュリー』という曲があって、わたしはそれをよく聴いてて。上司に小突き回されながらくだらない仕事をしている男が彼女に、君がいなければこんなことには耐えられないって内容で。わたしはこの男の気持ちがすごくわかるような気がする。ときどき、ぼろぼろに疲れて帰ってきた時に、背中を撫でてくれるような絵に描いたみたいな女の子がこの世の中にいるのかな、って思う。わたしは、あの男のことがわかるって思うたびに、でも自分には背中を撫でてくれる女の子はいないんだなって思い出すんだよ。」(ちくま文庫p.205)


Fountains of Wayne, “Hey Julie”(2004) 3rd『Welcome Interstate managers』収録


Working all day for a mean little man 意地悪い上司の下で一日中働いているんだ
With a clip-on tie and a rub-on tan  クリップ付きのネクタイして 肌を焼いた上司にさ
He's got me running 'round the office そいつが俺をあちこち走らせるんだ
like a dog around a track       まるでドッグレースの犬のように
But when I get back home でも家に戻れば
You're always there to rub my back いつでも君が僕の背中を撫でてくれる

Hey Julie, look what they're doing to me ジュリー あいつらが俺にする仕打ちをみてくれ
Trying to trip me up          俺にヘマをやらせて
Trying to wear me down        ヘトヘトにすり切らせるつもりさ
Julie, I swear, it's so hard to bear it   ジュリー 誓ってこんなの耐えられないよ
And I'd never make it through without you around君がいてくれなきゃやってられないよ
And I'd never make it through without you around君がいてくれなきゃやってられないよ

→「安らげる場所」への憧れを歌う。津村記久子作品の主人公たちの心情と共振。(『エヴリシング・フロウズ』の主人公ヒロシが読んだエラリー・クイーンの小説のタイトルは、『心地よく秘密めいた場所』(1971)。)

 

『ミュージック・ブレス・ユー!!』(2008) 野間文芸新人賞受賞


「アザミは、これを聴けこれを聴け、とモチヅキにヘッドホンを押しやり、好きな曲を再生した。
『あ、グーニーズの歌や』
『くだらなくていいよな、それ』」(p.40)
♪Cyndi Lauper, “The Goonies ‘R’ Good Enough”(1985)『Goonies』サウンドトラック収録

→後でモチヅキが語る、『グーニーズ』ノベライズ版で歯の矯正器がからまってキスできなくなるカップルの話と対応。

 

「またあの場[音楽フェス]に行けるのかと考えると、頭のてっぺんから魂が抜けてどこまでも上がっていくような気分になる。去年、リンキン・パークが『ナム』を演り始めた瞬間、隣に座っていた中学生ぐらいの男の子がうっとりと目を瞑って長い長い溜め息をついた。その顔が本当に幸福そうでおかしかったので、あとでチユキに言うと、あたしも見た見た、と二人で爆笑した。」(p.72)
Linkin Park, “Numb”(2003) 2nd『Meteora』収録

→「Numb」は周囲(特に母親)からの過度な期待を歌った歌。


「中学生の頃、『おれって何歳だっけ?』という問いにのせて全裸で町なかを三人のメンバーが走り回るブリンク182のプロモーションビデオを見かけて音楽を聴くことを発見したばかりの自分は、まともなことはほとんどの何も知らないという劣等感も込みで、ただひとつの知っていることとしての音楽について、あたりかまわず喋りまくっていた。それは本当に、誰にも受け入れられなかった。」(p.109)


blink182, “What’s my age again?”(1999) 3rd『Enema of the State』収録


I took her out, it was Friday night  あいつを誘ったんだ、金曜の夜
I wore cologne to get the feeling right コロンを付けて気合いも入れた
We started making out and she took off my pantsあいつがズボンを脱がせてきたけど
But then I turned on the TV     そのとき俺はテレビをつけたんだ
And that's about the time       そのときだった
that she walked away from me    あいつが俺から離れたのは
Nobody likes you when you're 23   23にもなってあなたみたいな人いない
And are still more amused by TV showsまだテレビが見たいわけ?
What the hell is ADD?         いったい「多動性」って何のことだよ?
My friends say I should act my age  年相応に行動しろって周りは言うけど
What's my age again?         俺って何歳だっけ?
What's my age again?         俺って何歳だっけ?

→「ADD」は注意欠陥多動性障害の略称であり、アザミの境遇を暗示。


「『ディヴァイン・コメディの二枚目と、XTCのベストと、ハウス・オブ・ラヴの三枚目…、ちょっと古いのばっかりやな』
XTC以外知らんなあ。ディヴァイン・コメディは名前だけ聞いたことある』」(p.172)
XTC, “Mayor of Simpleton”(1989) 9th『Oranges & Lemons』収録

→トノムラのアザミへの不器用な恋心を暗示?


「ストレイライト・ランの二枚目のアルバムには、すごい好きな曲があって、それこそテイキング・バック・サンデイの一枚目を何回も聴くような感じで好きで、ノーランのボーカルもきりっきりで、ええわーと思うんやけど、『どうか誠実になってくれ。どういう意味なんか、君は何をしたんか、そんでぼくは別人になれんのか。単純なことやわ。打ちのめされていっつもぼくは考えてる。もう死にそうって』なんて殊勝なことを歌うのよなあ。」(p.202-203)


♪Straylight Run, “Soon we’ll be living in the future”(2007)2nd『The Needles the Space』


So please be honest どうか誠実になってくれ
What's it mean      どういう意味なのか
Now what have you done  君は何をしたのか
Can't it just be another risk you're running tonight また違う賭けをしてるのか
It's simple soaked and always on my mind 打ちのめされてずっと考えてる
I'm dying         死にそうだよ


「無意識にブリンク182の『カルーセル』のイントロを頭の中でなぞっていた。『チェシャー・キャット』のバージョンは一分二十三秒もあるそれをアザミは、何かを待たなければいけない時に頻繁に思い出すのだった。[…]五十四秒の、突然リズムが変わるところで、豆粒ぐらいの電車が見えてきた。」(p.233)


Blink182, “Carousel”(1995)1st『Cheshire Cat』収録


Just you wait and see 君が待っていて見ている
As school life is a   というのも学校生活は
It is a woken dream    醒めた夢なんだ
Aren't you feeling alone?    寂しいのかい?
I guess it's just another      たぶんそれはまた
I guess it's just another      たぶんそれはまた
I guess it's just another night alone たぶんそれはまた孤独な夜なんだよ

→学校生活の終わりにかかるのにぴったりの曲。チユキと別れて寂しいアザミの心情をも表している。

 

ここまでのまとめ:アザミ自身は特に意識していなくても、アザミのかける曲や思い浮かべる曲は作品のテーマやその時の状況を表現している。映画のサウンドトラックに似た役割。また一般的に有名でない曲も多いだけに、たまたま同じ曲を知っている読者に強烈なリアリティーの感覚を起こさせる(ビートルズボブ・ディランなど有名曲をよくモチーフに使う伊坂幸太郎との対照)。

 

◆ 『ミュージック・ブレス・ユー!!』あらすじ
1章

p.5-13 アザミ(桶谷字美)とバンドのボーカル・さなえのケンカ。スタジオ受付のメイケくんに心配される。
p.13-23 チユキ(川柳)とオギウエの会話。金井夏芽(ナツメさん)と木下さゆみ(キノシタさん)が通り過ぎる。「おまえさあ、やっぱ太ったよな」と言われ、チユキがフラれる。(チユキ視点
2章

p.24-32 高校でホームルーム中のアザミとチユキ。オギウエとの一件を聞く。
p.32-43 歯医者でモチヅキと会う。帰りの電車でモチヅキが音楽に興味を持ち、意気投合。モチヅキの友人・トノムラ(外村宏)のことを聞く。
p.43-52 家庭でのアザミ。母親に叱られる。アニーからのメール。
3章

p.53-63 メイケくんのバンドのオーディションに落選。アヤカちゃんが電車内で痴漢されそうになっているのを助ける。メイケくんの話をして、メールを送る。
p.63-72 チユキとの勉強の帰り道、ナツメさんが男といるところを見る。進級テストに駆け込んでくるオギウエ。アザミはオギウエの答案をのぞくと、白紙だった。トノムラが試験ぎりぎりまでヘッドホンを外さないことへの尊敬(?)。チユキと野外フェスに行く約束。
p.72-81 アザミ、オギウエが不正をしたことを温厚先生と柔道部顧問に直訴。東京弁先生にフォローされる。
4章

p.82-93 アザミのアメリカアイドル論、研究発表会で取り上げられる。文化祭が中止になった原因である去年の事件が語られる。アザミとチユキの鉄槌。
p.93-103 研究発表会でトノムラがアザミのレポートに興味津々。チユキが語るトノムラ像、ほぼアザミと一致。アヤカちゃんとも会う。学食でメイケくんを見かける。
p.104-116 アザミが歯医者に行くとモチヅキとトノムラと会う。トノムラの音楽の趣味。「このトノムラという人間は自分より恥ずかしいかもしれない」(p.110) モチヅキの歯の矯正外れる。トノムラがテイラー・スウィフトに横恋慕しているのを知る。
p.116-126 泉の広場で泣き崩れているナツメさんから、別れ話を聞く。意気投合。
p.126-137 モチヅキ、矯正器が外れた勢いでキノシタさんに告白するが玉砕。アザミ、モチヅキをホテルに誘うが失敗。公園でのカップルのぞきでメイケくんとアヤカちゃんを見てしまう。アザミ、ふられても何とも思えない。
5章

p.138-144 中間テスト前後から調子が悪いアザミ。チユキにメイケくんとアヤカちゃんがカップルだったと話しても、考えがまとまらない。「なんであたしはこんなに自分のことがわからんのやろう。」(p.144)
p.144-154 チユキのアヤカちゃん襲撃。「これはあたし自身のこと」(p.152) アザミ、帰宅後アヤカちゃんに電話する。
p.154-164 アザミ、ナツメさんに呼び出され、一年前の事件を告白させられる。ナツメさんのアザミへの感謝。ナツメさんの言葉から卒業を意識する。
p.164-169 チユキ、事件の影響で金沢の国立大に進路変更。忙しくなる。
p.169-180 クリスマスにCD屋でトノムラと会う。「音楽は恩寵だった。」(p.173)単身赴任中の父親とともに家族団欒。家族は進路への期待無し。
6章

p.181-189 東京弁先生の進路相談。トノムラと同じ大学に出願することに。トノムラへの共感。
p.189-196 ナツメさんに頼まれて元カレの彼女を見に行く。女子大附属中の中2だったのでドン引き。チユキをナツメさんに引き合わせようとするアザミ。
p.197-205 トノムラとともに受験に行く。「あたしには将来のことなんか考えられへん。というより自分のことを考えられへん。そんなことを考えるぐらいやったら、バンドのことを考えていると思う」(p.202) トノムラの共感。
p.205-215 合格発表で不合格。東京弁先生に報告した後、帰宅。母親と話す。小学校時代の思い出。「あのおっさんの言うことなんか構いな、好きにし」(p.212)
アニー、友達が死に、ブログ停止。アザミ、アニーにお悔やみのメールを書こうとする。
p.216-222 卒業式。アザミ、チユキ、ナツメさん、キノシタさんで映画(ちなみにコーエン兄弟監督『トゥルー・グリット』)とケーキ。
p.222-234 アザミ、歯の矯正器外れる。モチヅキとトノムラの励まし。
アザミ、チユキを見送る。「ほんならまたね」「しっかりね」(p.232)
チユキと別れた後、ヘッドホンの充電切れに気づく。ヘッドホンをつけずに頭の中でブリンク182「カルーセル」を再生する。電車に乗るアザミ。車窓から「世界」を見る。

 

あらすじの特徴

・1章や2章は短いが、6章に向かうにつれ分量が長くなっていく。アザミが人間関係を含めさまざまなものを得て書かれる内容が多くなっている。

・後に重要となる人物は、だいたい最初の2章で一度登場している。加えて、アヤカちゃんが研究発表会に来る場面でメイケくんを学食で見かけることが2人が付き合っている伏線になっているなど、アザミが気づかないことでも読者が注意深く読むと気づくように伏線が張られている。構成の妙。

 


《発表者からの質問》

① 『ミュージック・ブレス・ユー!!』の、デビュー作『君は永遠にそいつらより若い』や他の津村記久子作品との共通点である、他の音楽小説にはない特徴は何ですか?(そして一箇所ある例外の意味は何でしょう?)

② アザミとチユキの共通点は何ですか?また、相違点は何ですか?

③ アザミは誰のことが好きなのでしょう?

④ 『ミュージック・ブレス・ユー!!』のテーマを「音楽」と「青春」以外にあげるとすれば何ですか?

⑤ アザミにとって音楽とは何でしょうか?

 

《読書会の模様》

まちライブラリーなんばでの開催で、以前からの参加者8名が参加しました。新規参加予定の方が急に都合がつかなくなった結果なのですが、たまたま読書会で何度も会ってお互いの読み筋を知っているメンバーが集まったため、後に見るような丁丁発止の(時には暴走気味の?)議論が展開され、全10回の中でも最も記憶に残るほど面白かったです。
最初に津村記久子ファンの主催者兼発表者が津村記久子作品と音楽の関わりについてふれ、実際に会場で音楽も流しました。その後にあらすじを振り返り、津村作品の繊細なリアリティーと、ドラマチックなことを特に起こしていないのに読ませる筆力を称揚しました。(「好き」1票)

そこから参加者が順に感想を言う時間となったのですが、好きだったか嫌いだったか面白いほど感想が割れたので選挙結果開票速報ふうに疑似実況してみようと思います。しかし単なる「好き」「嫌い」を超えたところで、全員が津村記久子の実力を認めそれに感服していたのもとても良かったです。

発表者に続き2人目のMさんは、三人称小説なのになぜか最初一人称としか読めなかったという錯覚を語り、その原因が「大阪弁の心内語が多用されながら女子の日常生活が語られる」という点にあるのではとおっしゃいました。この小説の方言の使用は重要な問題で、三人称の語り手がアザミの心情を描写しているのか・アザミが直接語っているのか見分けがつかない場面も多くあります。逆に言えばそれが独特のグルーヴと読者の感情移入を生んでいるという意見も出ましたが、Mさんは個人的な意見と断ったうえで「視点人物がしゃしゃり出てくる系統の小説があまり好きでない。群像劇で全員の個性が引き立つような小説の方が好き」とおっしゃっていました。(「好き」1票・「嫌い」1票)

3人目のOさんは、読み終えたが特に印象に残るようなことはなかった。自分はアザミよりは対人関係を含め「できる」部分や能力が多いし、そんな自分からするとアザミのことは心配だけど、だからと言ってどうすることもできない。むしろ感動したという人にどこに感動したのか聞きたい、という感想でした。4人目のKさんも同趣旨で、「高校で違うグループに属してるけど席が隣の女の子の話を、『え、そうなん?それでどうしたん?うそー!』と相槌打ちながら延々聞いている感じ」と、この小説独特のリアリティーとある種の「起伏のなさ」を絶妙の例えで表現したうえで、次々と読めるし構成力や筆力はすごいけど個人的には「興味がない」(!)、アザミは変わっている子として描かれているけど実際どこにでもいるもにゃもにゃした女子で普通より少し変わっているだけ、とおっしゃいました。(「好き」1票・「嫌い」3票)

5人目のSさんは、自分はこの小説は嫌いなのだけれど、そんなにも何かを積極的に嫌いになることは自分としては珍しい、だから理由を考えてきました、と3000字におよぶ感想文を提出され、「好き」サイドからそれはもはや好きでしょ!とツッコまれていました。嫌いな理由として、①「頭のいい人」や「大人」の役割をするキャラクターが作中に登場しないため、アザミの世界と対立するような葛藤が存在せず、結果としてアザミの一年に「通過儀礼」的な重みがない、と指摘されました。例えばスティーブン・キングスタンド・バイ・ミー」でのクリス少年のような、周囲の状況を見て適格に判断し時には年上とも互角に渡り合える人物は確かにアザミの仲間にはいません。登場する年長者も、アザミに何も期待しない両親をはじめバンドの大学生や生徒に興味ない担任の先生、柔道部顧問、痴漢のおっさんに至るまで確固とした責任感を持っていないように見える人ばかりです(「東京弁先生」は数少ない例外ですが、あまりに関わりが薄い)。Sさんは、これが2008年当時の日本のリアルを写し取っているかもしれず、自分が苛立っているのはそういう社会の状況かもしれない、その意味でとてもよくできた小説であると思う、だけど嫌い(笑)、とおっしゃっていました。(「好き」1票・「嫌い」4票)

またSさんの嫌いな理由は他にもあり、②冒頭でバンドが解散されることからわかるように、「祝祭的な時間」を全く描いていない、と指摘されました。Sさんもお好きと言われた恩田陸であれば盛り上げるだけ盛り上げそうな「文化祭」はあっさり中止、しかもその原因はアザミとチユキの一年前の行動(セクハラ気味な他校の男子高校生をトイレに監禁した)のせい、という行き場のなさです。合わせて、③この小説は女性が世間(特に男性)から「型」にはめられる生き苦しさを描いている、とも指摘されました。繰り返し「太った」とオギウエに言われるチユキ、ロリコン彼氏に搾取されるナツメさん、痴漢被害に遭うアヤカちゃん、そして赤髪で歯の矯正をしていて可愛くないからとバンドに落とされるアザミ、と受難の続く女子たちのエピソードは、フェミニズム的に読む可能性に開けています。この②・③とも、発表者の設問の答えに迫る重要な指摘でした。

ここから「好き」派の逆襲が始まります。6人目のYさんは、自分がアザミとほぼ同学年であること、アザミとモチヅキがカップルのぞきをしていた公園が自分の通っていた高校の近くに実在するもので、リアルに感じて引き込まれた。しかしフィクションである小説において「大阪の地名」などを織り込む津村記久子のスタイルは、すごいと思うけど小説としてどうなんだろう、とおっしゃいました。これに対しては、従来型の「仮想現実」に対して現実とフィクションが相互浸透する「拡張現実」(ポケモンGO京都アニメーション、『君の名は。』と『シン・ゴジラ』における風景の利用など)のような捉え方を先取りしているのではという意見も出ました。そこから発展し、『ミュージック~』のリアルさは、読者が語り手の位置に組み込まれていることから来るのではないか、という新鮮な読みも出ました。この小説は三人称だが、実はアザミの同級生がアザミのことを語っているようなリアリティーもある。そしてその語り手は読者であってもよいように設計されている、というのです。

Yさんは全体的に熱烈な「好き」派で、嫌いや無関心と言う人にラストシーンをどう読んだか聞きたい、あそこで感動しなかったのか、と質問されました。(「好き」2票・「嫌い」4票)これには、別にあそこで何かが変わったとは読めなかった、という落ち着いたものから、いやあんなん泣くやろ、という感情全開のものまで様々な意見が出ましたが、一番面白かったのは「わたしはバッドエンドと感じた」という感想です。自分が好きなものを人生の中に持っていることは良いが、ラストのアザミはそちらの世界(音楽)に取りこまれ、それなしでは生きていけなくなると感じた、と。これに対しても、最後のシーンはアザミはヘッドホンをせずに音楽を聴いている、つまりそれは音楽が滅びても音楽がアザミからは消えないということであり、アザミが取り込まれるということはもはやなく、アザミの中に音楽があるのだ、という反論もありました。またあんなん泣くやろ、ともう一回言っていた人もいました。泣かないとか無縁社会、とYさんは言っていました(笑)それに対し、もともと友人だったOさんとKさんは「Kの方が他の女子といる時早く帰る。なんなら一番先に帰る」「いやいやOだって!」などと身内の売り合いをしていました。

ラストシーンをめぐっては、カーテンが全開で光が入ってくるのではなく、隙間から光が差し込んでくるイメージで読んだ人が多かったように思います。確かに小説的葛藤は少なかったですが、アザミがたどり着いた僅かな成長(の予兆のようなもの)は描かれていると。もちろんこれからどうなるかは誰にもわからないのですが、ラスト二行で唐突に出てくる「世界」の語とそれをも流し去る「音楽」のイメージは、それまでの(あえて)淡々とした進行とのコントラストで感動的です。映画のラストシーンだったらここでタイトルが出て画面が暗くなりエンドロール、とイメージした人もいました(余談ですが、読書会後の打ち上げでは「映画化したら国内では新宿武蔵野館第七藝術劇場の2館ぐらいでしか公開できないからサンダンス映画祭に持って行って世界で売る」、ともう自分が映画化したかのように語っている人もいました笑)。

さて7人目のOさんは、自らの子育ての経験から、アザミが小2か小3の時に担任の先生に心無いことを言われ、診断を受けに病院に行く、という小説後半での回想部分に着目され、親として感動したとおっしゃいました。Oさんのお話には「実際小2の担任には"ハズレな人"が多い」など細部に津村作品以上のリアリティーがありました。自分の子供がADHDだ(という言葉もまだ今より普及していない頃のお話ですが)となった時、どうしてやれるか。それを受け入れてあなたはあなたでいい、と承認するアザミの母親の態度に共感する、とおっしゃり、一同感動、この一瞬は「好き」派が勝利したかに思えました。(「好き」3票・「嫌い」4票)

アザミの両親については、しかしアザミが高三になっていても同じ態度で接していていいのか、という疑問も出ました。Oさんは、確かにそれはそう思う、とおっしゃっていました。「葛藤のなさ」というこの小説の特徴がまた違う角度から浮き彫りになった形です。またOさんは音楽をこんなに聴ける・インターネットで海外のアニーと周期的にメールのやりとりをできる・歯の矯正に行かせてもらえているなんてアザミの家庭はそもそも恵まれていると思う、と鋭敏な読みを披露されました。Sさんは、自分も音楽ファンだからわかるが、アザミのスキルは音楽ファンとしてかなりの才能だ、環境も整っているのにそれを活かしていないのが悔しい、そういうやっかみもこの小説が嫌いになる原因か、と自己分析されていました。そうなると一番共感できるのはトノムラかな、と。

最後のIさんが「投票」して勝負が決まる前に、主催者が短くまとめと設問の整理をしました。まず、この小説の美点は、Sさんが「嫌い」と感じたドラマチックな展開(祝祭的な時間)の意識的な排除と細部に宿っているリアリティーにあること。特に強調したのは、チユキと別れる場面の「ほんならまたね」「しっかりね」という何気ない声かけの美しさです(アザミのような友達がいれば、愛情を持って「しっかりね」と言いたくなりません?)。そしてこの小説はアザミの成長小説と言うより、アザミが何気なく一緒にケーキを食べに行く仲間を手に入れるまでの小説だということ。そんなに仲が良いグループになるのではなく、もしかするともう同じメンバーで集まることはないかもしれないけど、だからこそ貴重な瞬間だと読者には思えます(このあたり、前回の『横道世之介』を思い出しました。)

設問②の「アザミとチユキの共通点」に関しては、二人とも世間から見て変わっていること、そして読書会で出た言葉では「型」にはめられようとしてそれに抵抗すること。「相違点」は、文化祭の事件やアヤカちゃんの髪にガムを付ける事件、タバコの吸い殻を落とした女性のハンドバッグに入れる悪戯など、チユキの方が一瞬の暴力として突出すること。

設問③の「アザミは誰のことが好きか?」に関しては、「ホテルに誘ってるしまずはモチヅキでは」「チユキとの間には友情を超える絆があり、だからチユキがアヤカちゃんに攻撃するのでは」「アザミは結局自分が好きなんだと思います」と様々な意見が出ました。一方自分に向けられる好意について、トノムラはアザミのことが好きだと読めると思うのですが、アザミは気づいていないようです。

さて最後、8人目のIさんの番となりました。これでIさんが「好き」と言えば同点です(最初は読書会と関係のないお遊びとして票を数え出したわれわれでしたが、この頃にはわりと勝敗にのめり込んでいました笑)。Iさんはおもむろに「自分が芥川賞の審査員で、たとえば石原慎太郎だったりしたら―」と切り出しました。

「この小説が応募されていて、他の小説もあるとする。そしたら僕は絶対この小説に賞をあげると思います(「好き」派の勝ち誇った「よっしゃー!」の声)。テクニックでは、ほとんど欠点がない。文章も素晴らしい。でもね、僕はこの小説、嫌いですね」

 

嫌いなんかい!!!

(最終結果:「好き」3票・「嫌い」5票)

 

ショックすぎてIさんが「嫌い」と言った理由はほとんど覚えていません。とまあこんな感じで時間になりまして、過去最高に意見が飛び交ってとても楽しい時間でした。たった200ページほどの小説でここまで違った意見を引き出させるとは、本とはなんと凄いものだろうと実感しました。その意味では、『ミュージック・ブレス・ユー!!』は本当に良書なんだと思います(どことなく、落選した候補の選挙後の負け惜しみのようで嫌ですが…)。

 

会場の都合で話す時間がなく、打ち上げでしかできなかった答え合わせ(設問①④⑤)。※個人の感想であり、読みの一例にすぎません。

① 『ミュージック・ブレス・ユー!!』の、デビュー作『君は永遠にそいつらより若い』や他の津村記久子作品との共通点である、他の音楽小説にはない特徴は何ですか?(そして一箇所ある例外の意味は何でしょう?)

→ 答えは「一人で音楽を聴くシーンしかない」です。ちょうどこの翌日に京都・大阪市民読書会の課題書だった津原泰水ブラバン』が「みんなで楽器を練習する」小説なのに比べると、いかに津村記久子が独自の道を行っているかがわかります。ありがちな「いろいろあったけど最後はバンドで文化祭に出て演奏する」という『スウィングガールズ』~『BECK』的な筋書きの対極として、アザミのバンドは1ページで解散し、楽器(ベース)を練習するシーンすら描かれず、することと言えばひたすら音楽を聴きそれについて話すのみです。モチヅキと電車内で「グーニーズの曲」という同じ曲を聴く時ですら、ヘッドホンをモチヅキにかけさせているため一緒には聴いていません。津村記久子にとって音楽とは一人で聴くものなのです。

例外は、回想として織り込まれる去年の野外フェスのシーン。しかしここでも、リンキン・パークに恍惚とする少年は一人で音楽に向かい合い陶酔するように描かれています。だからその姿を見てアザミは自分に自信を得るのです。

⑤ アザミにとって音楽とは何でしょうか?

→作中に明言されている言葉では「恩寵」であり、また「外部からのシェルター」でもあります。へその緒を思わせるコードがついたヘッドホンを必要としなくなったラストシーンからは、また新しいアザミと音楽との関わりが始まるかもしれません。

④ 『ミュージック・ブレス・ユー!!』のテーマを「音楽」と「青春」以外にあげるとすれば何ですか?

→性差別をしてくる男たちに対抗する、女たち同士の連帯。作中で好ましく描かれている男性はトノムラであり、「寝ているおっさん」であり、無害な存在です。そうでない男性に対しては、アザミとチユキがしたような逆襲が待っているでしょう。

 

参加された皆さん、興味深い議論をありがとうございました。次回は7月20日(土)15:00~、同じまちライブラリーなんばを会場として京極夏彦魍魎の匣』の読書会を行います。それではまた次回お会いしましょう!(M/T)