良書読書会のしおり

なんばまちライブラリーが惜しまれて閉館したため、新大阪で開催しています。初参加の方大歓迎。現在は季節ごとに開催。

第9回良書読書会記録 吉田修一『横道世之介』(5/11)

良書読書会#9 

課題書:吉田修一横道世之介』(毎日新聞社 発表2009→文春文庫2012)
2019. 5. 11@まちライブラリーなんば 発表担当:M/T

《レジュメ》

章タイトルと出来事【FF=フラッシュフォワード:1987年より先の時点での語り】

四月

世之介、上京。東京都東久留米市ワンルームマンション205号室に入居、202号室に住むヨガインストラクター・小暮京子と話す。大学の入学式で倉持一平・阿久津唯と知り合い、流れでサンバサークル「ムウジカ」に入部。三つ年上の従兄川上清志を訪ね、文学青年に変貌していることに驚く。

五月

サークルの代表石田にホテルの配膳のバイトを紹介される。清里でのサークル合宿、入浴中に倉持と阿久津唯の馴れそめを聞く。
【FF①】倉持の現在[2003年] 「懐かしいなぁ。横道世之介かぁ。元気にしてんのかなぁ。…考えてみれば、あいつのお陰で俺ら知り合ったようなもんだし。」(p.71)
世之介、共に上京してきた小沢が小豆色のダブルスーツを着てパー券を売っていて変貌ぶりに驚く。「なんか違う」東京生活への違和感。

六月

ホテルのバイトで1万円札をチップにもらう。家主不在の203号室に借金取りらしきヤクザ。小沢と一緒に行った原宿で片瀬千春と知り合い、頼まれて弟のふりをして土地業者の中年男との別れ話に一役買う。学食で金を貸した男と勘違いして加藤に話しかけ、共に自動車免許を取りに行くことになる。

七月

免許教習所での交友関係から加藤・世之介・睦美・祥子が下北沢でWデート。祥子が下宿に来訪し、世之介を稲毛海岸でのクルージングに連れて行く。片瀬千春と再会。祥子が夏休み世之介の実家を訪れることに決定。さくらとの思い出回想。千春が高級娼婦だという噂を祥子から聞かされ、動転する。

八月

サンバカーニバル中寝不足と熱中症で気絶。自動車免許試験に合格。加藤のカミングアウトを聞いても夜の公園のベンチでスイカを食べ続ける世之介。初めての長崎帰省と祥子の横道家訪問。
【FF②】加藤の現在[2007年] 「世之介と出会った人生と出会わなかった人生で何かが変わるだろうかと、ふと思う。たぶん何も変わりはない。ただ青春時代に世之介と出会わなかった人がこの世の中には大勢いるのかと思うと、なぜか自分がとても得をしたような気持ちになってくる。」(p.189)
世之介と祥子、さくらやジローを交えて海水浴。世之介の同級生に好かれようと頑張る祥子。海岸でファーストキスをしようとした時にボートピープルと遭遇。痩せこけた女に赤ん坊を託されるが何もできない。

九月

加藤から祥子の様子が暗いことを聞き、海岸での顛末を話す。体育の授業で阿久津唯の妊娠を倉持から報告される。祥子、ボートピープルの赤ん坊が助かったことを伝える。倉持、大学を辞めて働く決意。祖母の容態悪化を知らせる電報を受け長崎に。

十月

祖母の葬儀。清志から「焼き場の少年」という写真の話を聞き、また祖母の写真アルバムを作る。さくらとのランデヴー中に誕生日(10/24)を迎え、世之介十九歳に。
石田から倉持と阿久津唯が大学を辞めたと聞き、倉持に会う。千春の母に会い、深々とお辞儀される。

十一月

千春と六本木で待ち合わせするも風邪を理由にデートをすっぽかされる。
【FF③】千春の現在[2008年11月] 世之介の訃報を聞くが何も思い出せない。「なんかを思い出しそうで、それが出てこないのよねぇ」(p.299)
世之介、学祭のサンバを楽しむ。倉持の引っ越しに父母は冷たい態度。倉持の涙。

十二月

小沢に誘われた「ねるとん」オーディションでサンバを踊って落選。世之介、ホームレスを見ても何も感じない自分に気づく。祥子とのデートの予定が母に天ぷらを奢られた後実家に連れて行かれ、実業家の父と話す。与謝野家で告白、祥子と正式に付き合い始める。クリスマスと初雪。祥子、世之介を呼び捨てで呼ぶ決意。雪の公園でファーストキス。世之介の正月帰省と大韓航空機爆破事件の記事。

一月

地元のスナック「さち」で「馬鹿な大学生」呼ばわりされ中尾正樹と喧嘩。頭に血が上って敬語になる。祥子がスキー中に骨折、正樹と上京した足でお見舞いに行く。京子に四月と比べ「隙がなくなった」と評される。バイトの夜勤明けに子猫を拾い、加藤のアパートにエロビデオを交換条件に預ける。

二月

子猫、加藤のアパートの大家が引き取る。新宿駅ホームで死を感じた体験の回想。ギプスが取れた祥子とホテル巡り、初体験。
【FF④】祥子の現在[2009年2月] 「いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった」(p.413)「日本中の、いや世界中の、絶望ではなく希望を撮り続けていた素晴らしいカメラマンだったのだということは、はっきりと、胸が締めつけられるくらいに伝わってきた。」(p.416)
誤配達されたチョコをきっかけに106号室の室田恵介と会う。

三月

室田にカメラを貸してもらい、世之介写真家デビュー。祥子がヌードモデルを引き受け、世之介は戸惑う。阿久津唯の破水をきっかけに倉持の隣人・キムと知り合う。智世の誕生をキムから知らされ、キムと一緒に見に行く。祥子のフランス留学を見送り、帰り道で写真撮影。新大久保駅のホームで帽子を拾おうとする世之介とキム。最後の場面、「世之介を乗せた電車が、今ゆっくりと動き出す。窓に張りつくようにして、世之介が手を振っている。」(p.465)
【FF⑤】「世之介の母」から祥子への手紙[2009年2月] 「祥子さん、最近おばさんね、世之介が自分の息子でほんとによかったと思うことがあるの。」(p.466)「あの子はきっと助けられるって思ったんだろうなって。『ダメだ、助けられない』ではなくて、その瞬間、『大丈夫、助けられる』と思ったんだろうって。そして、そう思えた世之介を、おばさんはとても誇りに思うんです。」(p.467)

 

《発表者からの質問》
① 『横道世之介』の文体的な特徴は何ですか?またそこから考えられる、影響を受けたと思しき先行する文学作品は何ですか?

② リズムが変化するのは、何月の章ですか?

③ 世之介と倉持の共通点、相違点は何ですか?

④ 各章で必ず描かれているモチーフは何ですか?

⑤ 以上を踏まえ、なぜこの小説が人を感動させると思いますか?

 

《読書会の模様》

まちライブラリーなんばでの開催で、以前からの参加者7名、新しい方1名の計8名が参加しました。

最初に主催者兼発表者が吉田修一の歩みを簡単に語り、『最後の息子』収録の高校水泳もの「water」など青春小説もありますが、基本的には「最後の息子」「パーク・ライフ」『パレード』『悪人』など、現代を批判的に捉えるタイプの作家であり、一見単に青春小説と読める『横道世之介』にもボートピープルとの接触やホテルの残飯やホームレスの描写に見られる資本主義社会の「外部」へのまなざしがあり、作品内の複数の声を拾って読む必要を提唱しました。そして、『横道世之介』の文体における大まかな特徴として、以下の二点を挙げました。

 

① 世之介の鞄の中身まで知っている超越的な語り手が世之介を視点人物に語る章が基本だが、レジュメのFFで示したように2000年代を生きる登場人物による回想が五回差し挟まれる

 

② 世之介の死のニュースや世之介が撮る写真を、読者にあらかじめ示している。これによって、喜劇的なストーリーの中に「起こることが定められている」という悲劇のモードが入ってくる

 

①の全知の語り手については、レジュメの質問と合わせて、世之介の由来になった井原西鶴好色一代男』など江戸戯作文学の影響が話題になりました。発表者は、①登場人物の名前がタイトル②大学入学で地方から上京する何も知らない若者が主人公③東京小説、などいくつかの点で、「横道世之介』 は現代の『三四郎』だ」と自説を主張しました。「この若者、名前を横道世之介という。」「心なしか斜めに進んでくるのが世之介である。」などの登場人物を突き放した語り口も、「余裕派」と呼ばれ近代小説以前のような語りをしばしば採用した漱石を意識しているように読めます。(また世之介が祖母体調悪化の電報を聞いて動転して長崎に行こうとする場面も、『こころ』の「中」ラストで電車に飛び乗る「私」を思わせます。)

 

発表者はその観点から、作品内のリズムが変化する場所を「八月」の章冒頭、今までの「~、世之介である。」という導入がなくなって代わりに「東京で初めての夏を経験している世之介」(p.165)と普通の小説のように描写される箇所とし、作家が『三四郎』の文体から降りてきて現代の問題を描く姿勢の表れだとしました。実際、この章の最後で世之介と祥子はボートピープルに会うことになるのですが、この主張については「たまたまでは」「後の章(九月、十一月)でまた『世之介である。』が復活しているから無理がある」「論旨不明瞭」と意見が割れました。

また質問④のすべての章で出てくるモチーフについては、最古参参加者の女性が「電車!」と早々と当ててくれました。横道世之介』には執拗に電車での移動や駅名が描かれ、しかし2000年代のパートではタクシーやパトカーや救急車は登場しても誰も電車で移動しません。これ一つで1987年の時代感覚を表現していますし、「電車」は世之介の死を暗示するモチーフともなっています。

質問③の世之介と倉持の人物像に関しては、様々な意見が出ました。まず世之介が成長したという派と成長していない派が出ましたが、これはそれぞれに正解ではという気がします。世之介が帰省の時に大理石の時計を東京から再び持ち帰ったという記述(p.173)に、東京に慣れたことの表れで感動したという読みが参加者の方から示され、すごく説得力がありました。しかし、ただ何も考えず荷物に入れていただけでは?という反論も出てそれもありそうなことです。世之介は周囲の人物が将来と関わる決断をする時に周りにいるのに、自分ではその重大さに気づいていません。世之介の一人称小説だとしたら「暑い…」「眠い…」「かわいい!」などばかりになり作品が成り立たないに違いないという興味深い議論が交わされました。世之介の最期も、美談であるがどこまで主体的に決断したかは謎で、「隣の人が線路に降りたから自分も降りただけでは?」という意見も出され、世之介には失礼ながら笑ってしまいました。

横道世之介』には世之介以外に感情移入できる登場人物が少なく、実質主人公「横道世之介」を好きになれるかどうかで作品『横道世之介』の評価が決まってしまいます。発表者をはじめ、世之介をいとおしく感じて随所で泣いてしまった派と、世之介に興味が持てず「現実にいたとしてもたぶん関わってない」派に分かれ、後者は「千春派」と命名されました。2000年代の倉持をはじめとして、現状に疑問やコンプレックスを抱える登場人物/読者が世之介にロマンを見るのでは?というまとめになりました。世之介は「普通の象徴」であり、「普通」が成り立たなくなった後期平成の住人からは美化される対象になるのです。

ちなみに世之介と倉持の共通点は、「赤ん坊をどうにかしないといけない状況に置かれる」こと、相違点は「倉持は責任を取って父になるが、世之介はボートピープルに何もできず、忘れようとする=父になれない」というのが、発表者の答えです。時間や歴史の中に生きようとする倉持と、一瞬のことしか考えていない世之介との対比(映画『横道世之介』の主題歌は奇しくもアジカンの「今を生きて」でした)。しかしこれも、最近出版された『続横道世之介』を読んでみるとまた印象が違うようで、読むのが今から楽しみです。

最後に質問⑤に関連して、世之介を好きになって読んでいた参加者の方から、最後世之介が人を助けて死ぬという結末は感動的かもしれないが辛すぎる。「死」というファンタジーになってしまうのはどうなのか、という重大な論点が出されました。これについては、現実に2001年に起きた新大久保駅転落事故との関連も見る必要があります。現実の事件で亡くなったカメラマンの方は、実際は報道カメラマンではなく動物写真家で、読書会に参加者の一人がその方の撮ったインコの写真集(?)を持ってきてくれました。そこからもわかるように、40代のカメラマンと韓国人留学生が巻き込まれてなくなったという大枠は共通しますが、細部は現実とは変更されています。事故で現実に亡くなった方たちに対する、作家としての礼儀とも思えます。

世之介の死に関しては、先ほど紹介したように感情移入した分あまりに辛すぎるという意見があった一方で、現実と地続きと感じられてリアルで良かったという意見もあり、判断が難しいところです。創作を現実の事故と切り離して評価するなら「世之介の死」はファンタジー気味ですが、現実の事故が作品に重みを与えまた作品が現実の事故の解釈を更新しているのもまた確かだからです。いずれにせよ、息子を亡くした母の無念を泣き笑い顔で語るかのような、そして(自分の名ではなく)「世之介の母より」で結ぶ最後の手紙は、感情に流されない抑えた筆致で読者の感情を揺さぶる名文と評価できます(発表者は何回読んでもここで号泣してしまいます)。

全体的に、『ハチ公物語』や「ねるとん」など1987年を描くなら欠かせないアイテム(と、当時を知る先輩参加者がおっしゃってましたw)を織り込んだ風俗小説としてまず優れており、プラスしてそうと言われなければ現代を描いているとしか思えない透明感あるリアリティーを両立させた良書であると思います。その誕生には、作者の吉田修一自身が1968年生まれで世之介と同い年という、時代への思い入れも大きな役割を果たしているように感じます。今読んでよくわからなかった読者の方も、数年経って振り返ってみると読んだことが本当にラッキーだったと思える、『横道世之介』はそんな小説として心に残り続けるのではないでしょうか。

 

今回も活発な発言をいただき楽しい会になりました。次回は、津村記久子『ミュージック・ブレス・ユー!!』(角川文庫)を課題書に、6/15(土)まちライブラリーなんばで開催予定です。みなさまお誘い合わせの上お越し下さい。

 

(追記)「八月」の章に「ミリ単位でルームミラーを調整し続ける世之介」(p.191)という記述がありますが、なんと『続横道世之介』でもまだ世之介は自動車のミラー調整に苦心しているようです。世之介が写真家になることと合わせ、「世之介がミラーの位置を定められるようになる日」=「世之介が写真家として世界を認識できるようになる(フレームを切り取れるようになる)日」という意味が込められているのではないか、という意見を読書会後に参加者の方が出されました。この仮説が正しいかどうか検証するべく、『続々横道世之介』または『男はつらいよ 世之介奮闘編』の出版を楽しみに待ちたいと思います。(M/T)